とりま風呂

とりあえずまあ、はてブロでも。略して『とりま風呂』 by 常時系

ブログ塾を開催してウケるブロガーになるぞーという話

どもども @georgek5555 です。

下ネタを言うことなんて個性じゃないと勘違いした結果、下ネタを連呼していたら完全にどん詰まって今日の朝ごはんも思い出せない状態の底辺ふろガーの僕が、ブログ勉強会なんてものを開催しようとした。

 

torima.hatenablog.jp

 

開催は11月1日と、まだ2日ほどはあるのですが、10名限定と数も絞って募集をしていた結果、今日のここまででの申し込みが、なんと0だったんです。完全に黒歴史ですね。

もしかしたら、ブログ塾を受講してウケるブログを目指すぞーって思っている人たちをターゲットにしていない、ブログを楽しもうぜみんな!みたいなのをやろうとしたのが良くなかったのか。
いや、単純に「おまえ誰やねん。やっぱすっきゃねん」と、あかんかったということでしょうね。きつく抱いてよ今夜は。

とりあえず、なんで開催しようかと思ったのかというと、たまーにブログやっている人とかと話すと、勉強会とかやらないんですか?ぜひ話を聴いてみたいです!なんて感じで、社交辞令をきっと言われていたのですが、心がピュアグミな僕は、これまで「いやいや、ぼくなんて…」なんてネガネガな感じのことを言っていたのを、10月に入ったあたりで、そろそろポジティブに捉えて、実際に開催してみよう!ということで、調子乗って開催してみたというだけなんですよね。

 

自分のことは自分がよくわかっているというやつで、どこにもそんな需要がなかったということで、これからはおとなしくインターネッツの片隅で、駄文を垂れ流しながら、文字を書くことに集中していきたいと想います。
FMラジオとかやっていれば、きっともっときたんです。FMラジオをやっている人は、ちゃんとイベントで集客できてたもん!やっぱ時代はコミュニティラジオです。

さて、とはいえ実はそんなに落ち込んでいなくてですね、こういうのはコンスタントに開催しつづけることが大事なわけです。ただ、もう勉強会みたいなのは需要が0なのがわかったので、また定期的に闇イベントを開催していこうと思う次第であります。
次は来月ですかね。忘年会の糞忙しい時期に開催して、申し込みが0でまたここで悲しみを吐露するまでが遠足です。

とりま、悲しみ。

サラリーマンを全否定という話

どもども @georgek5555 です。

あれよあれよというまに10月も終わりになって、そろそろ忘年会シーズンがやってきますね。年々忘年会の日程が前倒しになってきて、もはやネーミング自体の意味がよくわからなくなってきている気もします。

さて、時折いんたーねっつではサラリーマンという存在を否定する人がいますが、僕も今やフリーランスに落ち着きました。多分この先もずっとサラリーマンというのはやんないと思います。
サラリーマンをやっていた頃の方が、なんとなく時間にも余裕があった気がしますし、収入面に関しても特に心配事はなかった気がするのですが、それでも戻りたいと思わないのは、サラリーマンがやっぱり向いてないからなんだろうなと思ったりします。

しかし、サラリーマンという存在を真っ向から否定して「サラリーマンなんて辞めたほうがいいです」という人たちがいますが、あの人達はいったいどうしてサラリーマンをそこまで否定したがるんだろうかと、すごく心の闇を感じずにいられません。

特に、この時代は働き方の多様性がどうとか、そういった趣旨の文章とともに縛られることから開放されなさいみたいな、何シニエーションなのか分からない発言をみると、多様性を訴えかけているのにサラリーマンはなぜダメなのかが未だに疑問でしかありません。
そもそも、サラリーマンという言葉で一括りして全てを否定することがまったくもって疑問だったりします。
確かにかつての日本は、商店街の八百屋さんのように、個人事業主が今よりもなんとなく多かったような、そんな気がしなくもないです。
時代は核家族化していくのにも関わらず、ビジネスの世界は合併を繰り返し、モンスター企業がどんどん生まれ、中小零細は大きな会社にやさしく包まれて、どんどん大家族化していってます。
だからこそ、もっと個人事業者が増えてもいいんじゃないってことの裏返しだったりするのかもしれませんが、給与所得者のことを全否定することが全く意味不明だったりします。

サラリーマンを否定することで、フリーランスの俺かっこいいとか、そういう他人を下げて自分を持ち上げる的な話なら、まあ、別にいいんですけど、そうじゃないとしたら、どうしてそこまでサラリーマンと全てを一括りにして否定したがるのかが全然本当にまったくどうしてなのか分からないんですよね。

自分自身がサラリーマンだとして「もうサラリーマンなんて本当につまんねーよ!」とかさけんでいるとすれば、そっと井村屋の肉まん・あんまんを買ってあげたくなるのですが、自分がサラリーマンじゃないのに、サラリーマンをあえて目の敵にするのって、何かしら心に闇を抱えているとしかもはや思えないのです。

例えば、フリーランスになったばかりの頃に、凍えそうな季節に愛をどうこういってたら、酔っぱらいの広告代理店勤めのサラリーマン集団に突然絡まれて、気づいたら居酒屋の裏にあるゴミ捨てばでずぶ濡れの子猫のようになってたとか、予約制の馬肉屋でキラキラOLと合コンしたという話をタワマンに住む上場企業の社員に散々聞かされたとか、なんなら「さらり」とかいう女の子にラブレターもらって屋上行ったらヤンキーグループの彼女で「ごめんね笑」とか言われながら、目の前でオンザビーチされたせいで「さらり」「まん」という響き自体に嫌悪が走るとか、もうそんなんじゃないと、何でそこまで否定しなくちゃいけないのかわからないのです。

そもそも最近すごく思うのが、特定の存在や団体を一度嫌いになっちゃうととことん嫌いになるという人って、なにかしら心の闇を抱えているタイプで、仕方ないけど陰険になっちゃたのかなと、そんな風に思うんです。

僕も心の闇かかえてますよ…ゾワッ

とにかく、働き方の多様性がどうとかっていっているのに、サラリーマンを否定するっていうのはなんだか矛盾してませんかというのを書こうと思ったら、いつの間にかダラダラ長くなってしまって、自分の心の闇までさらけ出すことになってしまった感じです。

とりま、時代は田舎暮らし。

100%他人は面白いという話

どもども @georgek5555 です。

寒いなーと思ったら、暑いなーとなったり、なんだか天候が落ち着きませんが、三代目引田天功はいつ現れるんでしょうかね。三代目ブームに乗っかって、そろそろ登場してほしいです。

さて、お仕事の関係で様々な方にインタビューをさせて頂ける機会が随分と増えてきたのですが、たまに「いいなー、おもしろい人に会えて」と言ってもらえることがあります。
これに関しては、本当にありがたい限りではあるのですが、「おもしろい人」という意味では、個人的には他人は100%面白いと思っているんですよね。

たまに、ある程度の人数がいる飲み会とかにいくと見かける光景で、いわゆるネームバリューがある人のところに人が群がるのってありますよね。それはそれで仕方ないことなんですが、全然有名じゃない人というか、言うならばごくごく一般人の方とかがそこにいて「何されている方なんですか?」と質問されると「あ、いやコンビニでバイトしてる只のフリーター」ですなんて回答すると、たちまちに興味を失くして、なんかこいつと話しても無駄だみたいに扱う人みるんですよね。
僕が元々いなかの人間だからっていうのもあるんでしょうけど、例えば僕の出身地である福岡の北九州に、東京から移り住んできた人がいたとすれば、「この人東京から来たんだよ」ってだけで、地元人間は興味津々で「最近東京は何が流行ってるの?やっぱりパンケーキのホイップは鬼盛りなの?」みたいな感じで、どんどん楽しそうに会話が繰り広げられるんですよね。
これが、前述した「コンビニでバイトしているフリーター」だとした場合でも、「え?どこのコンビニ?東京ってコンビニやっぱりこっちより多いの?時給高いんでしょ?そっち限定のでなんか面白いのない?てか、やっぱり就職東京でも厳しいの?」ってどんどん話が繰り広げられていくわけです。
まあ、そんな環境にいたからっていうのもあるんですけど、どんな人であっても基本的に他人って100%面白いんですよね。
考え方も行き方も、人それぞれだし、趣味も性癖も性欲の吐け方も、性に目覚めたタイミングとか、普段どれくらいの頻度で性交渉しているとか、それぞれ違うわけで、それを聴くとすんごい楽しいんです。

たまに、どうやったらすごい人と知り合いになれますか?っていう質問とかを見かけますけど、そもそも自分以外の他人は全員おもしろいし、すごいって思考を持っていれば、そんなどうでもいい質問しない気もするんです。
多分、表面的なすごいだけに囚われて、もっと楽しいことがごろごろと溢れている日常をそもそも楽しめない人は、きっとすごい人にあったところで、テレビを観ていて得られるその人の姿となんも変わらないから、だったら家でリッツパーティでもしながら観ている方が、食欲も会いたい欲も、なんだったら性欲も同時に満たせるわけです。

あれ、なんでこの話を書こうとしたのかすっかり忘れたんですが、たまに「僕は全然おもしろくないですから…」と飲み会の隅っこにいる方いるんですけど、ああ、まあ僕もそういうタイプなんですけど、よかったら今度一緒に飲みましょう。
別にあなたが気の利いたジョークを言うなんて考えてもないし、激安なのに可愛い子がいるお店を紹介してくれるとかも思ってなくて、単に他人は100%おもしろいと思っているだけで、だからといっていじり倒す気もないし、おもしろおかしくブログに書こうとかも思っていないので、どうぞ是非ご一緒しましょう。

ずっとやりたいものの一つに、いわゆるこうした人達にインタビューするメディアをやってみたいと思ってて、別に多分、本当にどうでもいい話ばかりになる可能性はあるんですけど、でもインタビューを色々経験して思うのは、メディア的に引き出したいものが出せない人は確かに難しいんですけど、別にそういうのがないんだったら、生まれて5歳になる息子が最近靴下にハマっているとか、一昨日買ったコンビニのアイスであたりが出たとか、なんかそういうのだけで、全然おもしろいんですよね。

なかなか、リソースが割けずにいるので、実現していないんですが、どうにかこうにか実現したいな。
ああ、そういえばそんなサイトもう普通にいくつもありますね。

とりま、プリンセス。

ブロガーと嫌アフィがなぜに分かり合えないのかという話

どもども @georgek5555 です。

今日は東京のどこかでブロガーさんたちが、一箇所に集まって羽毛布団とかを売りつけられるセミナーのようなものが開かれるそうですね。認識が違っていたらすいません。

さて、かつてこのブログでも、アフィリエイトが嫌いな「嫌アフィ」の人のことや、商品紹介するブロガーさんがうんちゃらかんちゃらみたいなことを書いたことがありましたが、ものすごく以前からなぜブロガーと嫌アフィの人が分かり合えないのかというのは、オフラインではちょこちょこ語っていました。
いや、むしろこのブログでも何度となく言ってきたような気もするので、繰り返しになるかもですね。

僕は元々嫌アフィの人間だったからなんとなく解るというのもあるのですが、ブロガーさんたちと会話をしていて、嫌アフィの人たちがブログにアフィリエイトを貼っているのに拒否反応を示すことに対して「ただ、言いたいだけだろ」「毛嫌いしがやって」みたいな感じで言うことがあるのですが、冷静に両方の言い分を聞き取ってみると、双方の言い分がそれなりに解るというか、そもそもブロガーさんは自分たちが指摘されているポイントに気づいてないというのがあるんですよね。

その2つの間の埋まらない一番の溝的なものが、ブロガーさんがよくいう「同じ紹介するならアフィ貼って何が悪いの?」にあるんです。

例えば「C」という製品があるとします。これがモバイルバッテリーだとしますよね。ブロガーさんからすれば、この商品を実際に使ってみて良かったから紹介記事を書こうとします。それがAmazonで売っている場合は、当然Amazonリンクを貼りますよね。
ブロガーさん側からしてみれば、同じ紹介するならAmazonリンク貼ろうが貼らないだろうが変わらないんだから、貼っても何も悪くないし、そもそもどこで買えるか教える方が読む人にも優しいじゃんっていう思考なわけです。

ところが、ブロガーさんは本気でそう思っているところもあるのですが、冷静に外からみるとちょっとこれが違ったりすることがあるんですよね。

これは、たまにブロガーさんと話していて気づいた点でもあるのですが、例えばとある新製品「X」が出たとします。このXがモバイルバッテリーだとしますよね。この「X」がAmazon楽天などでは取り扱いがなく、都内でしか展開してないダーヤマ電機というお店でしか売ってないとします。当然アフィリエイトなんてないわけですよね。
そうすると、これ全然って言っていいほどブロガーさん紹介しないんですよね。いや、もちろん全員じゃないですよ。でも、オフの話で「X」の話を仮にブロガーさんにすると「わー!すごくいいじゃないですか。でもAmazonで売ってないのかー。CみたいにAmazonで売ればいいのに」なんて感じの発言が出たりします。
この発言は、ブロガーさんからすれば「特定の地域でしか変えない、しかもネットで変えない商品を紹介したら、読者は買えなくて不便」だというところがあったりするんですね。
でも、嫌アフィからすれば「ほら!アフィリエイトない商品紹介しないじゃん!食べ物とかは紹介するのに、ガジェットとかはアフィあるかないかで判断してんじゃん!」ってなるわけです。
何もガジェットだけじゃないのですが、決してブロガーさんもアフィリエイトが無いものを紹介しないわけじゃないんですが、いざ「C」と「X」を並べた時に、両方とも同等にいいものだとしても、「C」だけを紹介して「X」には一切言及しないなんて人は珍しくないわけです。
なぜなら「どうせならアフィリエイトでちゃりんちゃりんしたいから」というところにいきつくわけで。

しかも、世の中のブロガーさんのブログを見てみたら「今月のPVはこれくらい」「今月の収益はこれくらい」「PV集めるにはこうしたら」「アフィリエイトで稼ぐための配置は」なんて記事が溢れているわけですよね。
読者からすると「俺らは1PVとしか見られてないんだな」とか「結局アフィアフィってうるせーよ」とかって思う人もいるわけです。

いや、そんなのウェブメディアだったら当然でしょうって声も聞こえそうですが、多くの「メディア」というところは、PVこそはそれこそある程度のラインでは発表したりしますが、「アフィ」というものに関しては、あまりそこまでおおっぴらに発表してないのです。

でも、ブロガーさんは正直に話してくれるから、なんか逆に好感がもてますーっていう方もいるでしょうが、嫌アフィ勢からしたら、そういうひとつひとつの積み重ねが「ブロガー=アフィ厨」だという認識になっているところもあるんでしょうね。

しかし、実際に最近のいろんなブロガーを目指す人を見ても、その多くが「金が欲しい」だったりするので、それ全然間違ってないんだろうなって。

「どうせならお小遣いも」じゃなくて「金かせぐためにブログやるわ」っていう人のほうがすごく目立つようになってきたので、そりゃそうなるわなって話ですね。
なので、いつまでたっても分かり合えなくて仕方ないのかな。別にわかりあう必要もないでしょう。羽毛布団を無理矢理売りつけられるわけでもないし。

とりま、どうせなら羽毛布団であの子といちゃいちゃしたい。

喫煙天国とすずめを焼いて食べていたという話

どもども @georgek5555 です。

Twitterでクソリプを飛ばしてばかりいると周りからあいつはクソリパーだって認識されるので、いつの間にかクソリプだらけのTLになることってありますよね。そうですか、無いですか。

さて、今の10代の人には信じられないような話ですが、昔はそこら中でタバコが吸えまくっていたという時代がありまして、代表的なのは昔は電車のいたるところに灰皿が用意されていて、電車の中で普通にみんなパカパカ吸っていたなんて光景が繰り広げられていました。
路上喫煙なんて当たり前だし、むしろ吸わない人のほうが肩身が狭くて、禁煙車両は1車両しかなかったり、禁煙スペースが今でいう喫煙スペースみたいな存在でした。
会社のデスクで吸っているのなんて当たり前だし、病院でも普通に吸ってましたし、喫煙者にとってはまさに今からしてみれば天国のような時代だったのですが、それも普通に20年前くらいまでは割りとまだまだ喫煙天国だったんですよね。
どう考えても臭いし、汚いし、身体に悪いしで、なんであれがまかり通ってたんだろうねってびっくりするくらいなんですが、全面禁煙の流れの中で、ちょっと前まではタクシーは普通にどの車両も吸えたんですよね。
んで、喫煙者は徐々に追いやられていった結果、タバコを吸うためだけにタクシーに乗るなんて時がありまして、タクシーも吸わない人のために強力な空気清浄機を配備したり、車の窓を少し空けると気流で社内の煙が外に出て行くタイプのなんか不思議な装備とかつけてたりしました。

タクシーの話なんて、ほんと数年前のレベルですね。

んで、全然話は変わるんですが、僕の地元の福岡は焼き鳥天国な街でして、いや焼き鳥天国なのかどうかわかりませんが、やきとんなんて言葉がなくて全て串に挿せば焼き鳥っていうので、どの店もやきとり屋なんで、焼き鳥天国なんですよね。
んで、僕が幼い頃、多分30年前くらいまではどこのやきとり屋にいっても「すずめ」の焼き鳥があったんですよ。
あのすずめです。ちゅんちゅん。
僕も多分食べたことがあるんですけど、骨が多いとかなんとかで子どもはまだ早いとかで、あんまりそこまで食べさせてもらわなかった気がするんですが、今でも一部のお店では出しているのかな?でも、最近はすずめの焼き鳥って聞かなくなりましたよね。
多分、知らない人からしたらすずめを食べるなんて、なんて信じられないことをしているんだ!って感じなんでしょうけど、割りと普通だったんですよね。

んで、何が言いたいかっていうと、喫煙天国にしても、すずめの焼き鳥の話にしても、時代が経つと価値観というか、常識というかが変わってきて、「あの頃はな…」なんてオッサンの話も、単なる懐古主義というか、今更その時代には戻らないよってことが結構あるなーと思ったんです。

多分、一部の喫煙者は未だにあの頃の喫煙天国のことを懐かしんでいて、「あの頃は普通に吸えたのに、なんで吸えないんだ!」とか言ってると思うんですよね。でも、これだけ当たり前に吸えない時代になってもなおそれを言っているのって、なんというか、そろそろ気づけよって思うわけです。

僕がインターネットを始めたのは今から19年前くらいかな。まだダイヤルアップの時代でしたが、まわりにパソコンを持っている人は全然少なくて、それどころか携帯電話すら全員が持っているわけじゃない時代。
僕は元々ゲームのプログラマーになりたいって子どもの頃に思っていたのもあって、パソコンという存在にはすごく憧れがあったんです。
親父は理解がある人で、まだまだパソコンが全然一般的じゃない時代でも、これからパソコンの時代がくるかもなーなんて言ってくれてたので、わりと頑固者の親父でしたが、そこにはすごく寛容でした。

僕は、むしろ逆にそんなに早いスピードでパソコンという存在、そしてインターネットという存在が世間を覆い尽くすと思ってなかったので、なんというか早い段階から手をつけていたことは良かったなとしか思っていないのですが、こうしたインターネットを昔からやっている人っていうのは、「おれ、テキストサイトやってた」「cgiで掲示板つくってたよ」「テレホタイムがなー」って話で盛り上がって、徐々に「あのなーブロードバンド時代になったおかげで今じゃ当たり前に動画とか見れているけど、昔はなgifでシコシコしてたんだぞ」とか言い始めるんです。
もちろん、昔の話しをしていると僕も盛り上がるんですが、その時代を引き合いに出して「今の子達は解ってない!」とか言ってるのって、むしろ時代を解ってないんじゃないかということを最近思うようになったんですよね。

世の中の流れが自分の想像していなかったところにいったことで、受け入れられないことっていうのは仕方ないかもしれないんですが、抵抗したところで仕方ないので、むしろそれをどう上書きするかを考えたほうがいいんじゃないかと常々思うわけです。
いや、例えば戦争反対みたいなのはいいと思うし、言い続けるべきだと思うんです。戦時中は大変だった、もうあんな時代に戻したくないっていう話ってむしろすごく前向きな話じゃないですか。
でも、いわゆる懐古厨って昔は良かった。っていう良かった話なんですよね。バブルの頃は良かった。まだダイヤルアップの頃の牧歌的雰囲気が良かった。ブログがまだこんな感じじゃないころが良かった。みたいな。

別に今の時代に合わせろというのではなくて、良いと思うなら貫けばいいんじゃないの?って。周りに迷惑をかけないことなら貫いていいと思うんですよね。
でも、なんで懐古厨って、若者をあんなに説教したがるんだろう?っていうのはすごく不思議ですよね。
xvideoでシコふんじゃっているのがダメだっていうなら、50kくらいのあらあらなwmv動画を作ってあげるんで、それでシコふんじゃってくださいよと。ちなみに僕はxvideoじゃなくてdmmのco.jpでお金出してみてます。

喫煙天国なんてもう来ないから、そんな話しても仕方ないのでやめようよっていうことと、すずめの焼き鳥って今どこで食べられるんですかね?っていうのを書こうと思ったら、こんなに長くなって、いつの間にかdmmのco.jpユーザーだって自分でバラしてて恥ずかしくなったわけです。

とりま、出稽古行ってきます。

いついつからやるは完璧主義者であるという話

どもども @georgek5555 です。

10月あたりって、特にこれというイベントが体育祭ぐらいなのもあって、世の中はありとあらゆるイベントを投下してきて、経済活動を促そうと必死なんだなとぼんやり考えていました。カレーライスはライスです。

さて、いろんなものに影響を受けたりすると「いついつから◯◯をやる」っていう意思を高めたりすることってありますよね。例えば「来月からダイエットする!」とか、もっと言えば「明日から仕事がんばる」とか。
こういうのって、一見するとすごくユルい発想な風に思われてたりしますけど、実はこういう発言こそ完璧主義者ならではの発言だと思うんです。

例えば「来月からダイエットする」って言うなら、別に今からすぐ始めてもいいと思うし、むしろすぐはじめたほうが効果が高いですよね。実際に11月から10kg体重を落とすって考えているなら、今から始めれば11月に入った頃にはすでに2kg落とせているかもしれないわけで、その方が楽だと思うんですよね。

ところが、こういう発言をする人って、月の1日から記録をつけていきたいとか、準備がいるとか、それまでにダイエットに関する知識をつけるとか、なんというか今からでも「脂を控える」とか「帰りに500m走ってみる」とか「帰りに1つ前の駅で降りて、後は歩いてみる」とかすぐにでも実行できそうなことをやらないんですよ。

多分なんですけど、別にものすごいことをしなくてもよくて、「◯◯をしよう」と決めたら、ほんのすこしだけでもそれをやってしまえば本当はいいんだと思います。
けれど、宣言したら完璧にそれをやってしまいたいと考えるからこそ、スタート日を意味もなく設定するんですが、こういうタイプの完璧主義者ってちょっとでも上手くいかないとすぐに挫折しちゃうんですよね。自分が描いた通りにいかないからとダダをこねてやめてしまう。

それって完璧主義者って言わないじゃんって言う人もいるんでしょうけど、完璧主義者って前に書いた通りいくつか種類があるんですよね。

 

torima.hatenablog.jp

んで、この手の完璧主義者っていうのは、上記の分類とはまた違う、自分じゃ完璧主義者だときっちり理解していない人になるのかな。とにかく、決めたらやり切るタイプではなく、決めたことがやりきれない中途半端な結果になるならやめてしまうタイプ。美学をすごく重視するところもある。

「明日から頑張ってブログ書こう」って言っている人は、別にいますぐ書けばいいだけなんですけど、それをわざわざ明日と宣言するのはそういうところがあるんですよね。んで、明日は例えば書いたとしても、どこかで挫折しちゃう。
「いついつから◯◯する」という人は、完璧美学者とでも名付け直した方がわかりやすいでしょうか。仕事などでもそういう発言をする人っていうのは、本当に腰が重たいし、じゃあやりはじめたら初速が速いのかって言ったら全くそんなこともなく、うさぎと亀ではなく、亀と亀なので、最初からてくてく歩いている亀には結局追いつけないし、それどころか全然追いつけないから諦めてしまったり、やめてしまったりする。
完璧美学者だなと自分自身おもったら、今すぐ何かをするっていう習慣をつけるだけでも、全然景色が変わってくると思います。

ここで「思いついたらすぐ実行だなんて、実際できることとそうじゃないことがあるじゃないか」って言う人もいますが、それは全くその通りなんですが、「できること」をすればいいだけで、何もそうじゃないことまでやれなんて言ってないんですよね。
だけど、「そうじゃないこともある」ってだけで、「すぐにできること」までやらないのは全く持って理由になっていない。

ああ、新しいブログを始めようかなと考えたら、確かにどこで書くのかとか、ブログのデザインどうするのかとか、色々考えることはあるでしょう。
でも、それってもしかしたら本末転倒なことが起きているかもしれなくて、このはてなブログとかライブドアブログあたりだったら、そこまで深く考えずにとりあえず始めてみて、後から色々変えるってこともできる。
WordPressにしたって、独自ドメインをとるかどうかの問題はあるけど、でもテーマなんてとりあえず標準テーマでもいいんじゃないのとは思うんですよね。
世の中のブログを運営するためのノウハウなんかを書いた本って色々ありますけど、あれって結構本を出版するためにかさ増ししなきゃってことで、色々書きすぎているものがあるなーと思うんですよね。
例えば独自ドメインなんて最初から獲った方が後から変更するのは面倒だったり、SNSのシェア数がリセットされたりと大変なのはわかるんです。でも、1,2日ぐらいだったら別にいいんじゃないと思うし、最初から獲った方が楽なら無難なの獲ってもいいんじゃないとも思うんです。

よくあるんです「失敗したー。なんでこんなドメインにしちゃったんだろう」っていう話。
それ、美味しいじゃないですか。
つまり、有名な人とかがそういう会話をしてくるってことは、そういう人は後先考えずにやれることをどんどんやった結果、ドメインをじっくり考えて取得するってことが出来なかったので、後から笑える失敗談になっているということなんですよね。
割りと有名どころってそういうの結構あります。はてなブログだと、とりあえず独自ドメインにしてなくて、後から独自ドメインにして苦労したとかそういうの。
でも、そういうのばかりが目立つってことは、そういう風な人のほうが成功しやすいってことの現れでもあるのかなと。
あと、「新しいブログ」っていう思考になっているぐらいの人なら、ある程度ドメインの取得の仕方とか、どういうドメインSEO的にいいかとかわかっているでしょうし、最近は新gTLDのおかげで自分が獲りたいドメインの文字列も取得しやすいので、とにかくササっとやったほうがいいですよ。

自分はユルいから、明日からとか来月からとかやるって発言は、全くの嘘で、実際は完璧を求める人間で、全然ユルくないけど、最後までやりきるかどうかってことだけにユルいだけなので、むしろ逆に最後まではやりきるが、スタートはとりあえずでいいかぐらいのほうが上手くいくんじゃないのかなと思いますって話をここまで長く書いてしまいました。

恋愛もとにかく早く手をあげた方が上手くいくこと結構ありますよね。ダンスパーティでお目当ての女の子がいるなら、速いこと声をかけて一緒に踊ろうっていったほうがよくて、映画の主人公みたいになかなか上手く声がかけられなかったけど、最後の瞬間奇跡が起きて…なんて、むしろ普通の生活だとそうそうに起きなくて、そうやって躊躇している間に、かわいいあの子は早めに声をかけてきた、にっくきイケメンとダンスホールの裏手でアチャオチャしちゃってますよ。そうなってからでは遅いです。

とりま、今宵僕とダンスを踊りましょう。

身近な人が何を言っていても気にしない強さという話

どもども @georgek5555 です。

本当に秋めいてきましたね。半袖でいるのも少し寒いくらいです。女子の服は露出が減りますが、可愛さが二重三重になっていいですね。

僕は決して強い人間ではないので、誰かが誰かの悪口を言っていると、ついつい「そうなのかー」と思うことがあります。
自分が直接受けた被害でないからこそ、身近な人が誰かの悪口を言っていると、それが本当のことのように聞こえてきて、その人のことを嫌いになってしまうなんてこと、ありますよね。

僕も色々と悪口を言ってしまうことだってあります。悪口なんて言わない方がいいに決まってますし、陰口なんてもっと言わないにこしたことはありません。
色々な環境に身を置いてきて生きていると、他人の陰口や悪口を言って自分の正当性を保とうとする人が結構いるもので、非常に身近な人たちがそういう人たちばかりだと、ついつい影響を受けてそうなっちゃってた時代もありました。
いや、多分、今もそういう環境にいてしまうと、自分自身そうなってしまうんじゃないかという不安は常につきまとっています。
ただ「あーこの人達のそばにいると、自分までそうなっちゃうんだな…」とどこかで気づいて距離を保つようになれることが、昔よりは出来るようになったので、そういった意味では随分と危険を回避できるようになりました。

僕の周りには幸いにも、全く陰口を言わない人も居てくれてまして、そういう人と触れ合っていると、なんか自分が陰口言っているのがどんだけアホくさく、馬鹿らしいことなんだと思うようになれました。

僕がすごく強いなーと思う人たちは、たとえ非常に身近で仲が良い人が誰かのことを悪く言っていたとしても「そうなんだ」とだけ相槌を打ち、だからといって自分自身で判断すると決めている人達です。
それっと非常に当たり前のことのようなんですが、例えばそれが自分にとって尊敬できる師匠であったり先輩であったり上司であったりが、誰かのことを悪く言っていると「この人が言うから間違いないんだ」みたいな感覚に陥ることがあります。

大好きな有名人がこんなこと言っているんだから、俺はそれを支持する…みたいな感じでしょうか。
この人「◯◯法案絶対反対!」って叫んでいたら、その人が言うんだからそうなんだって思う人は決して少なくないし、もっといえば最初は志が同じ人たちで集まっていたとしても、人それぞれ何かの事象に対してぶつかると意見が違うのなんて当たり前のことなんですが、ついつい集団でいるとそのリーダーの意見が絶対なんだと、自分で考える隙なんてないくらいに、そのまんまが自分の意見に変わることもあります。
宗教とか、ブラック企業とか、何かしらの学生団体とか、そういうところありますよね。

んで、元の話に戻るのですが、そんな大所帯の話じゃなくても、非常に親しい人が誰かのことを「この人、こんなふうで、こんなんで、最悪なの」とか「◯◯さん騙されているよ。あの人本当はすごく悪い人なの」なんて感じで話をされると「そうなのか…なんだ知らなかったな…」みたいな感じになってしまう。

そうなってしまう人が悪いわけじゃない。人間親しい人間が言った意見を鵜呑みにしたり、そのまんま正面から受け止めるのは、仕方のないことなんだと思うんです。
けれど、そうじゃなくて、「自分が思うように付き合うし、何か迷惑がかかるようなことがあれば離れるし、そもそも他人から言われたことで悪意を持ってしまうなんてくだらない」と思っている人がとても強くて素晴らしいというだけ。

僕もそういう風になれたらいいなと思いつつも、やっぱり弱いから、ついつい誰かが言っていることに影響を受けてしまうことも多いし、ましてやそれが大好きな女の子とかだったら、無条件で「そうだ!あいつは悪人だ!よしキスしよう!」ってなるんです。

でも、たとえキスが出来ないとしても、それを受け入れる強さってかっこいいし、人生を心地よく生きていくコツのひとつなのかなって思います。

とりま、キスしよう。

10段ピラミッドに思う誰でもヒーローの弊害という話

どもども @georgek5555 です。

ヒーローになりたい、ただひとり君にとってのって唄ったら、ドン引きされることがあったとしても、そっと手を差し伸べます。

さて、ここ数日とある公立中学校で10段ピラミッドをさせていた件で、ネットがぼーぼー燃え上がっていますね。
さすがに10段ってやっぱり危ないよなーっていうのが多いのですが、ピラミッド10段はなかったのですが、棒倒しとかも結構あぶないよねって思うし、学校の体育の授業でバトルロワイヤルと称して、生徒たちを戦わせる教師の戯れで6対1で戦った結果、鎖骨を骨折したことがある僕なだけに、危険な体育ってやっぱりどうなんだろうねとは思ったりもします。

んで、戦前の軍隊でも5段くらいまでしかやってないし、マットを下に敷いてるしっていう画像が流れてきて、さらに炎上が止まる様子がありません。
元の学校の動画も、一番最初に流れていたやつが、削除されて、そこからはイタチごっこのようにコピーされたものがアップされている状況です。

こんな危険なことやらせるのなんて即刻やめろよっていう話は、どなたか聖人の方にお任せするとして、なんでこんな危険なことやっちゃうんだろうねってことを考えたんですが、これってなんというか、誰でもヒーローになれちゃうかもしれない記録への固執のせいなのかなと思うんです。

分かりやすいところで言えばギネス記録ってやつ。
元々は「世界一速く飛べる鳥は何か?」って話で盛り上がったビール会社のギネスの社長さんが、世界一の情報を集めた本を売ったら売れんじゃない?って感じでノリからスタートしたものらしんですが、今ではありとあらゆるギネス記録っていうのが毎年生み出されています。
すでにあるものを更新するパターンや、今まで誰も考えつかなかった新しい記録に挑戦するのもあったりで、とにかく日本においてはギネス記録っていうのが認定されると、周りからはヒーロー扱いされるんですよね。
毎年、いろんな街でも、まちおこしのひとつとして、ギネス記録の海苔巻きみたいなのを作ったりしているのも、ニュースとして取り扱われるほど。

これって、ちょっと頑張れば、誰でもヒーローになれるってことですよね。
オリンピックで金メダルをとるのはとっても大変だし、才能もいる。例えば何かしらのデザインコンテストで賞を取るには、pintarestを常に見てないといけなし、仲間内で賞を回さないといけなかったりして、誰しもが一等賞をとるのは難しいわけです。
けれど、ギネス記録の中には、ちょっと頑張れば取れるものがいっぱいある。そして、どんな記録であってもギネス記録ってなっただけで、みんなが熱狂し、賞賛し、そして自慢する。
だから、10段ピラミッドに挑戦するんだと思うんです。

でもね、2位じゃだめなんですか?って、世界のキタノの横でにっこり笑っていた人が言ったことがバッシングされていましたけど、多分彼女が言いたかったことってこういうことなんじゃないかなと思うことがあるんです。
確かに、あのスパコンは1位を獲りたいって思うし、そのために世界に誇る技術を手に入れているのはあると思うんですけど、なんでもかんでも記録ばっかりにこだわりすぎて、時にして努力という言葉で危険を顧みないことが美学のようになることが起きてしまってるんじゃないかなと。

そして、日本は未だに軍事教育の名残が根強いです。
今は、モンペアとかのせいで、先生たちも大変なのはわかるんですが、モンペアがいなかったら、逆にモンスター教師=モンティたちが、生徒を単なる駒のようにしか考えられていないような現実もあるんじゃないかと。

実際、僕は学生時代から教師という存在があまり好きじゃないです。もちろん素晴らしい先生はたくさんいますが、多くの教師が教育指導要綱のもとに、生徒たちを自分の点数を保つために指導することに主軸を置いてたりします。
反論はどうぞ、ご自由に。
けれど、生徒が自由に発想し、自由に表現し、自由に伸びゆくことを良しとしない風潮があるのは、今も昔もそんなに変わってません。
ぱぷりかとピーマンの違いって何よって思うし。

んで、話は戻ると、ギネス記録がとれたら、そりゃ自慢じゃないですか。記録に拘ったら、生徒が仮に大怪我しようが、挑戦させるわけですよ。
1回も成功してないけど、本番なら成功するかもしれないって思ったんでしょうけど、仮に成功したからって、怪我しない保証はどこにあったんだろうか。

誰でもヒーローになりたいです。僕も一度くらい大きなコンテストで一等賞をとりたいし、ギネス記録だってとりたいし、たったひとりのヒーローになりたいです。
けれど、誰でもヒーローになれるからって、ヒーローになることを強制させちゃ駄目だし、自分の手を汚さずに誰かを傷つけてしまうことには、慎重になるべきだと思うんです。

その先生だって、冷静に考えたら、自分の名誉っていうよりは、もしかしたら生徒たちをヒーローにしてあげたいって考えるすごく優しい先生なのかもしれないんですよね。
だから、一番の悪は、記録をとれば誰でもヒーローになるっていう、くだんない風潮なんじゃないかなと。

とりま、ピンポンみよ。

直せる猶予と直せない制限という話

どもども @georgek5555 です。

10月1日は都民の日でした。現在は東京都民である私ですので、当然仕事はお休みです。そんなわけありません、お仕事していました。

さて「文章を書く」ということを生業にしているのですが、特にフィールドに制限を設けていないため、様々なお仕事をさせていただいています。
一般的なライター業務というと、何かしらの記事を書くことが想像される方も少なくないと思うのですが、多くは編集者の方が入りますので、それなりに直しが入ることが大半です。
てにをはの修正だけになることもあれば、ガッツリ文章がまるごと別人になることだって経験上散々ありました。
時間的にゆとりがあるところであれば、修正指示=赤が入った状態で一度差し戻されて、再度校正を出したりします。基本的なスタンスとして、文章というのはつくり手によって本当に自分が思う正解が違うので、最終決定者が考える思考に出来るだけ合わせて書いているつもりでも、どうしても直しがはいることは仕方ないと思っていまして、さらに言えば、編集者の人というのは読者目線が何を欲しているのか、もしくは読者にどう届けるべきかを考えているので、書き手としてもよりよい文章を構築していく上で、編集者の直しというものに全く抵抗がありません。
もちろん、抵抗が無いからといって「はいはい、全部そのままどうぞ」ということもなく、こちらが意図していることを読み取れてない直しが入ることもありますので、時に戦うことも決して無いわけではありません。
しかし、割りと僕は編集が入ることで文章が変わることに対して「もうこんなの俺の文章じゃない!悪文だ!」なんていうことはまず無いんですよね。
割りと短気だと思われているようですが、その辺はなんというか、すごくおおらかで、もちろん直されることを前提に出しているわけではないのですが、むしろ直しが入ることに心の猶予を感じていて、自由に書けているということもあります。

ほとんどの仕事が、まず僕が書き上げることを前提に発注が入ってくるのがこの仕事です。修正が入ろうがなんだろうが、その時点で仕事をきられることもまずありませんし、よほどひどい文章を出さない限り、修正をすんなり聞き入れる方がまた仕事の依頼も継続して入ってきます。
つまり、一定以上のクオリティを保っていれば、修正が全く入る余地のないほどの完璧な文章じゃなくても大丈夫ということなんですよね。むしろそれより大事なのは〆切を守るだったりとか、ネタの切り口が面白いだとか、そういったところのほうが重要視されている感じはします。
ところが、例えばコンペだったりコンテストだったりといったものに提出する場合は、むしろ修正依頼も当然あるのはあるのですが、採用されて初めて制約するものなので、可能な限り完璧なものを提出する必要があります。つまり直せない制限がかかっている状態。
たまにコンペに出すことがあるのですが、そういう時は可能な限りそのままでいける人の方が勝ったりします。たまに落ちた理由を教えてくれたりするクライアントもいて「ここがもう少しこうだったら、内容的にはあなたの方が面白かったから採用になってた」なんてことを言ってくれるのですが、これはお世辞が多分に含まれている可能性もあるとはいえ、確かにぐうの音も出ないほどの完璧なものを提出すれば、勝てた可能性はあったということなんだと思います。

直せる猶予があるものと、直せない制限がかかったもの。
仕事に対する向き合い方が、かなり大きく違うものなんだと、勝手に思っていたのですが、考えてみるとその両方を受け入れられる姿勢を持っていることが大事なんだと最近改めて思ったのです。

直せない制限がかかっているのと同じように、可能な限り100%に近づけながらも、直しが入っても柔軟に受け入れることが出来る真摯な気持ち。
自分的には100%に近づけたものに直しが入るとイラッとする人も少なくありませんが、自分が思っている100%はあくまでも自分基準であって「そういう考え方があったのかとか」「そういう方向性ね、うふ」だったりなんて感じのゆとりがあることが大事だと思ったのです。
ましてや、仕事でやっている以上、自分が編集長でないならば、あくまでも編集方針に従うべきであって、それが出来ないのなら、自分が編集長になるしかないよねと思うし、いやそうであってもそういう姿勢がないのなら、自分が編集長になったところで、きっとどこかで破綻しちゃうとは思っているのです。
成長とは、確固たる自信と、真摯かつ柔軟な姿勢、その両方のもとに生まれるのだと。
確固たる自信はいうならば幹の部分、真摯かつ柔軟な姿勢はいうならば養分を吸い上げる根。
森に生い茂る樹々の中で、どうやって太く長く育つことが出来るのか。

とりま、僕のアレは細く長いタイプです。

深夜にこっそり告知という話

どもども @georgek5555 です。

 

ちょっとひっそりやります。

ご興味ある方はどうぞ。

あいつ金儲けに走りやがったというお声はコメント欄にてお願いいたします。

 

とりまイベントへの参加は10名限定ですが、コメント欄は無制限です。