とりま風呂

とりあえずまあ、はてブロでも。略して『とりま風呂』 by 常時系

◯◯をやろうと思うと言っているのはだいたい駄目だという話

ども @georgek5555 です。

正月ムードが終わったと思ったら成人式ムードですね。最近は今年成人式ですという友人が減ってきたのは、なんというか歳のせいなのでしょうか。口語体で書いているとついつち「そうなんでしょうか」って打ちそうになるのは、そろそろ矯正したいところです。

さて、何か新しいことをやろうと思った時に「今年は◯◯をやろうと思っている」と宣言する人よく見かけますよね。友人に対してというのもありますし、ブログなんかやっている人などは文章にしたりして公開していたりします。

僕も実際過去にそういうのを幾度と繰り返してきたのですが、これを宣言する理由って言っちゃってやらないといけない状況を生み出そうというパターンと、言霊じゃないですが言えば実現するという両方の意味合いで、こういう宣言をよくしたりします。

僕の場合だと最近では「3年後にはモノカキとしてやっていきたい」と言っていて、そのままモノカキとして今は仕事をしているなんてことがあったりするので、決してこういった宣言は駄目じゃないのですが、とはいえ大体やりもしないうちから「◯◯をやろうと思う」みたいな宣言だけが先走りしている時ってほとんどがうまくいかないような気が最近しています。

自分の中で宣言しちゃうのはいいんですが、他人に対して「◯◯をやろうと思っているんです」と話している時に、それがその人にとって何か革新的なアイデアというか、実際は別にそこまで革新的なアイデアじゃないにしても、その人にとっては「これって斬新じゃない?」とか「これって私向きじゃないです?」なんて内容の時、ほとんどがそのアイデアを言いたいだけで、実際ちょろっとやってすぐ終わっちゃうのが非常に多い気がします。

よく言いますが、自分が思いついたアイデアなんて、とっくに他人がいっぱい浮かんでいるから、アイデアに価値なんてないってやつ。僕もそう思っていて、実際問題アイデアなんて無価値で、実行できるかどうかだけだと思うんですよね。なので、実行して初めて価値がでるし、実行した人がやっぱりすごいわけです。

んで、アイデアを出したはいいし、やる気もあるんだろうけど、結局継続しなくてやめちゃうタイプの人って、宣言が先行しているパターンが多いなーと思ったんですね。上手く言っている人って、どっちかというと、宣言するよりも先に行動に移してて、いわゆるβ稼働を先にやって、ちょっと経ってから「実は最近こういうのをやりはじめまして…」なんて感じの方が多いんです。

宣言もせずにβ稼働するって、なんか失敗しても恥かかないように保険うってる感じるがするっていう人もいるでしょうけど、なんにせよアイデアだけ宣言して実際たいしてやりもしない人よりも、恥ずかしいからこっそりやりますって人のほうが数倍先を行っている気がするんですよね。
一番いいのは宣言もするし、やったらちゃんと継続できる人なのかもしれませんが、いずれにせよ、毎回宣言はするけど続かない人って、僕も含めてになりますが、とにかく宣言する暇があったらやり続けることだけを意識したほうが良いよねって感じです。

ブログだったりすれば、新しくブログを立ち上げた一発目の記事に時間がかかっちゃう人とか、ガワばっかり整えることに意識がいってコンテンツが全然作成されない人とか、変にコンセプトをガチガチにしすぎて全く筆が進まないとか、逆になんでもアリにしすぎたせいで既存でやっていたこととすみ分けができずにわけわかんなくなっちゃうとか。
それだったら、元々やっていることを淡々と続けていくほうが良い気がしますし、新しいことをやりたいんだったら宣言とかなんだかんだとかの前にとにかくコンテンツ?というか、続けることを意識して、周りが「あれ?最近なんか新しいことやっているよね」って勝手に言ってもらえるようになるほうが正解な気がします。

会社だったりすると、そういうのって外向けに発表したりしますが、きっとそういうのの影響なんだろうなと思い、いつも自分もそうやって宣言したはいいけど、全然進んでないなーっていうのばかりで、なんにも言わずに黙々とやっている方がきっとうまくいくんだろうと思ったしだいです。

なんだかんだでずっと続けられていることのひとつが、このお風呂を沸かすことだったりするのをみても、なんだかんだ色々考えて、派手に発表するくらいなら、とりあえず前に進んでみるのがよいんでしょうね。

とりま、途中仕事の連絡が入ったのでつぎはぎ感。

両成敗ってどうなのよという話

ども @georgek5555 です。

色々なゲスな人を見てきたとは思うので、僕はまだまだひよっこだなと思っている次第でして、いつかは本当にゲスやなと言われてみたい気持ちがどこかにあります。ちなみに心は乙女です。

さて、よく人と人が喧嘩をしていると、仲裁役に入る人が「喧嘩両成敗や!」と言って、謎にそれぞれに罰を与えるなんてことがあったりしますが、あれって本当に必要なのだろうか?と疑問に思うことがあります。

そもそも喧嘩両成敗をするのって、何かしら偉い人が自分からみて身分の低い人に対しておこなうものな気がしているので、その発言をしている時点で、その人は喧嘩している2人を下に見ているということにならないのだろうかと。
確かに、喧嘩している2人というのは、他人から見ればアホらしく映るもので、馬鹿にされても仕方ないのでしょうが、それにしてもだいたい喧嘩両成敗、喧嘩両成敗って言っている人って、めんどくさいからはよ終わらせろみたいな感じですよね。

ちょっとうぃきぺでぃあんを調べてみたら、喧嘩両成敗ってすごく歴史が古くて、書いていることが難しすぎたので、引用して「だそうです。なるほどー」っていうのはやめておきますが、それにしてもだいたい「喧嘩両成敗や」って言われると、イラッとしてしまうことってありませんかね。

他人が両成敗したところで、果たしてそれが何の意味をなすのかわからないこともよくありますし、両成敗した俺って最高みたいな、謎の自画自賛モードに入っていることも多い気がします。

喧嘩している当人同士が、仲直りするためにお互いに何か罰を課すみたいなのはいいかなと思うんですが、突然他人が乗り込んできて「おりゃ、ここはワシにまかせんさい!」と言いながら、最終的に「よし、お前らの言い分はわかった。ここは喧嘩両成敗や」って言われると、おいおい結局それなのか…とげんなりすること、ありませんかね。

無いですよって言われたら、もう何も言い返せないので、ここいらでやめておきます。

とりま、私以外私じゃないの。

どうして大人になると謝れなくなるんだろうという話

ども @georgek5555 です。

さっき、自分のFBに投稿した内容なんですが、なんとなくこっちにも書いておこうと思ったので、ほぼそのまま転載しときます。以下ほぼ転載。

どうして人って大人になると、どんどん謝れなくなるんだろうね。ゴメンとか、すいませんとかって、そんなに言うことにデメリットがある言葉なんだろうか。
こちら側が、完全に否が無い時にまで、謝ることはないかもしれないけど、相手を傷つけたり、傷つけてしまったことに気づいたりしたのなら、そこに謝罪の言葉を重ねることは、何も悪いことじゃないと思うんですよね。

ビジネス的には、謝罪をすることはマイナスだから、絶対に謝罪の言葉を使わずに相手を納得させるとか、人はごめんっていう度に精神的に疲労するとか、なんか大人になるたびに、くだらない知識ばかり増えて、人間としての本質を見失っている気がする。

こいつには絶対謝りたくないっていう相手もいるだろうけど、僕はそういう相手だからこそ、自分に落ち度があった時は、素直に謝るようにしてる。なぜなら、自分がミスを認めないでやり過ごすってことは、その嫌な相手に謝罪もせずに許してもらっているわけで、それって完全にダサいじゃんって。 どんだけ話し合っても納得できないような、こちらに否を感じないことなら仕方ないかもしれない。

けれど、僕が知っている紳士・淑女は、そんなくだらないことも考えず、素直に感じたまま、謝罪なり感謝なりが出来る人ばかりだし、変な大人よりもよっぽど3歳児とかのほうが、そういうのちゃんとできてると思う。

政治じゃないし、ビジネスじゃないし、人と人が付き合うことって、そんな頭で考えて考えて謝るとか謝らないとか決めることなのかな?

ごめんとありがとう。これが言えなくなったら、もう人間やめようと思う。

とりま、読んでくれてありがとうございました。あけおめ。

過剰に自分を持ち上げられて紹介された時のカッコいい対処方という話

ども @georgek5555 です。

年の瀬ですね。なんだか、どんどん周りが仕事納めをしているので、僕もなんだか仕事納めをしなきゃならない気がしてきたんですが、終わる気配がありません。

誰かを通じて、はじめましての方を紹介してもらうことってありますよね。そういう時って、間に入っているひとがそれぞれの人のことを軽く他己紹介してくれたりするものなのですが、そういう時って過剰に持ち上げられて紹介されることってよくありませんか?
僕の場合だと「この人は凄腕のライターさんで」とか「ブログがすごくて」とかとか、ありもしないでっち上げメリークリスマスで紹介されることがあります。そういう時に「いやいや、全然そんなのじゃありません!駆け出しのライターですが、よろしくお願いいたします」と、クラウチングスタートをかましてダッシュして駆け出したい気持ちになりながらも、一生懸命否定して、その場をなんとかやり過ごしています。

紹介する人からしたら、いわゆるウィットに富んだジョークのようなものなのでしょうが、正直いって、そんな紹介されて「いやいやいや」なんて断っていても、相手からしたら「(本当は自分でもそう思ってるんじゃないの?照れ隠し風に否定しとかないと、そうでもないって言われるのカッコ悪いからじゃないの?)」って心のなかで思ってたりしないだろうかと、そんなこと考えたりするじゃないですか。
いや、そもそもそこまで持ち上げられると、後から「あいつ偽物だ!」って言われるのが恥ずかしいわけで、否定せざるを得ないんですが、でも考えてみたら「凄腕のライター」と呼ばれたいとは思って頑張っているわけで、そういった評価って自分で決めるもんじゃないし、他人に決めてもらったなら、そのまま受け入れて、恥ずかしくないような仕事を残せばいいんだなと思うわけです。

でも、やっぱり過大評価じゃないですか。どうしたらいいんだろうねって、毎回思っているんですけど、先日とある方を紹介された時に、ちょっとかっこいいなーと思うことがあったんです。

その方は、某業界で本当に知らない人はいない、いうならば業界のドンみたいな方らしいんですが、その方を紹介される時に「この人は、超すごい人で、業界のドンなんです」と紹介されたんですよね。
今までも、そういった方を紹介されることもあって、芸能人の方とかは「テレビで観たことあります」って言えば、特にそれ以上の紹介はされないんですが、あまり普段は表に出ない人の場合は、すごい人であろうがなかろうが、こうした紹介のされ方をするわけです。
んで、すごい人の場合は「いやいや、まだまだです」みたいな感じで低姿勢をみせるというのが基本形で、偉い人こそ偉ぶらないよねってよくみんなが言っているのですが、今回紹介された人はそういう感じじゃなくて、むしろかっこよかったんです。

その方をそんな風に「すごい人なんですよ!」って紹介されたとき、その人は否定も肯定もせず、一切その紹介に関して無言で僕のことをまっすぐ観て、他己紹介が終わった瞬間、名前だけをいって「どうぞ、よろしくお願いいたします」って感じで挨拶してきたんです。

おい!かっこいいじゃないか!

否定もしないし、肯定もしない。これまじでかっこいい。他人が評価する自分を敢えて否定することもないし、でも自分がそれを真に受けたいわけでもない。今日この瞬間、あなたが出会った僕は、目の前にいるこの僕でしかありませんって感じで、まっすぐ無表情で見つめてきたんですよね。あれ、まじでヤバイなって思いました。

どんなときも、どんなときも、僕が僕らしくあるためにって思ってるんですけど、やっぱり過剰に持ち上げられた時って、すごい恥ずかしくなって「いやいやいやいや」なんて言うじゃないですか。
あれですよ「◯◯ちゃんって本当に綺麗だよね」「いやいやいや」「(いやいやじゃないよ、自分で可愛いって思ってないわけないじゃん)」っていうやりとりがあるじゃないですか。で、僕が昔しびれた女性は「◯◯さんって本当に綺麗ですよね」って言われた時に「(にこっ)」と無言で笑顔を相手にみせたんですよね。あれを観た時に、やばい、ガチのいい女おったわ。魔性の女みせまショーだわって思ったんです。あのときと同じしびれ方だった。

とはいえ、その方々は、それだけの評価に値する内容の人物だからこそできるわけで、今のあたくしは、揚げたてのぱりっとした唐揚が美味しいか、時間が立っててくにゃってなっている唐揚をチンしてさらにくにゃっとさせたほうが美味しいか、どっち?!って考えている程度の人間なので、もっと頑張らないといけないなと思った次第です。

過大に他己紹介された時は、否定も肯定もせずにいられるような人間でありたいって書きたかっただけなんですが、なんだか無駄に文章が長くなってしまいましたね。もしかしたら、これが年内最後の更新である可能性がビレヴァンです。

とりま、今年の年末もひとりです。

リア充爆発しろという話

ども@georgek5555です。

 

ちまたはクリスマス・イブですね。きっと君はこないサイレントナイト、ホーリーナイトなんでしょうね。朝方までは雨がふって寒かった東京も、いつの間にか晴れになっていて、なんだかぬくぬくのあったかハイムが待っている感じになっています。

そんな中、友人のごりらさんがこんな記事を投下してきました。

6年間ブログを書き続けていたら、生涯の伴侶に巡り合うことができました | gori.me(ゴリミー)

ブログ続けていたら、婚約したって、なんかアメリカンブロガーみたいな話ですね。あえてのクリスマス・イブに投下というのは、非リア軍団に対して喧嘩を売っているのでしょうか。たまたまかもしれませんがPCで見に行ったら、上部にはなぜだかムキムキの筋肉集団の写真と、キャノン砲のようなカメラを握ったごりらさんが映っていて、喧嘩を売ろうにも売れない空気を漂わせています。おめでとうございます。

さて、毎年クリスマスイブになるとTwitterのTLを中心に「リア充爆発しろ!」と、あちあちカップルたちに向けて、非リアのアカウントが発言しているのをよくみますが、よくよく考えたら、あれってすごくハッピーな会話なんだなということを、改めて気付きました。

たまにイラストを書くのが上手い人が、リア充爆発の様子を頭あたりがちゅどーんって爆発するように描いていますが、実際のところはそういうことじゃなくて、リア充たちに向けて祝福のメッセージを送っているんですね。

なんせ、今夜は聖なる夜です。聖力旺盛なリア充カップルたちは、きっと放っておいても、そのホーリーパワーをみなぎらせ、彼氏は彼女のクリスマスをメリーして、きっといつもよりも激しく爆発させているんですよね。

それを敢えて「爆発しろ!」っていっているのは、きっと少子高齢化にあえぐ日本で、リア充ぐらいはもっと頑張って、あったかハイムを作ってくれと、そういっているのでしょう。アメリカン風にいうならば「グッドラック」みたいな感じでしょうか。

そういえば、かつて仕事仲間が、クリスマスに爆発させた結果、数カ月後にめでたくご懐妊して結婚したということがあったのを思い出しました。なんて素敵なサイレントナイト。

リア充爆発しろという発言には、とても素敵な日本独特の温もりがこもっているということですね。こんなところに日本の原風景があるとは。

とりま、メリクリ。

女性の後姿に惹かれるのは何も顔が見えないからだけじゃないという話

どもども @georgek5555 です。

鍋蓋って置き方に困りますよね。熱いから持ちづらいし、ちょっとでも傾けたら裏側についた水蒸気達が熱湯になり机に溢れるし。あれをうまくこなせる女性は素晴らしいなと思うばかりです。

さて、昔から見返り美人図のように、女性の後姿というものに男性は惹かれやすいというのがありますよね。ただ、後ろ姿がヤバヤバだったから、声かけてみたら想像していた顔と違った…なんていう、そもそもナンパすることを肯定している話がどうなんだみたいなエピソードトークも時折見かけます。

なぜに僕らは女性の後ろ姿に惹かれるのかというテーマで話をすると、それは顔が見えないからじゃないかという話をする人もいるのですが、ふとさっきたまたま流れてきた踊ってみた動画をぽやーっと眺めていて、ふと思ったんです。

僕は常日頃から、男性の恋愛におけるあれこれは、学生時代の初恋に起因している説を唱えているんですが、もしかしたら後ろ姿に惹かれるのもそれなんじゃないかと。

学生時代の淡い初恋って、少し距離感がありますよね。体の触れ合いというよりは、なんというか、ちょっと離れたところから思い慕うみたいな。
あいつかわいいなーと思っている女の子がいたとしたら、ついつい正面からじゃなくて、後ろ姿をいつも追っかけてしまうみたいな。
もちろん、正面から見たいんですが、正面からだと目が合ったらどうしようとか、そもそも恥ずかしくて、割合的に3:7くらいで後ろ姿の方がよく見ているような気がしてきたんです。
つまり、女性を観てときめくことに関して、後ろ姿を観てドキドキするという状況が、そのあたりから形成されていって、徐々に後ろ姿=愛しいものというふうになっていったんじゃないかと。

ましてや、顔が見えない相手だからこそ、後ろ姿だけで、自分がときめく相手とすり替えることができていたりするんだろうなと。だから、振り返ったら美人じゃなかったからとかそういうのじゃなくて、自分が思い描く初恋のシーンとあまりにかけ離れているときに、なんとなく失望感が生まれるのかなと。いうならば、そっか…もう恋は終わったんだった…みたいな。

まあ、あまりに美化しすぎですね。これは、いうならばパンチラはパンツが見える直前までが遠足ですっていうのと近いものがあるような気がします。
いや、全然関係ないや。

とりま、鍋の季節ですね。

店休日とだけ書いた看板はもう要らないという話

ども@georgek5555 です。

 

かなりどうでもいい話なんで、どうでもいい話には興味が無い人は、ガジェット系ブロガーさん達が投下しているフリーテルの最新機種の記事でも読んでください。

 

ふと帰り道にお腹すいたな~と街をさまよっていたのですが、土日休みのお店以外って結構いつが店休日か分からないことってありますよね。

いや、まあ食べログでも見ろよって話なんですが、ここ美味しそうだなって思った時に限って外に「店休日」って看板出てたりしますよね。

店休日なのが別に問題じゃないんですが、いつが定休日かそれじゃわからなくない?ってよく思うんですよね。

 

何も飲食店に限った話じゃないんですが、例えば散髪屋でも、チロルチョコ専門店でもなんでもいいんですが、特に朝早い時間とか夕方暗くなったあたりとか「店休日」って看板が出ていると、そもそも今日が店休日だったのか、もしくは明日が店休日だから先に出しているのか、昨日までが店休日で今日は店を開けるのか、判断つかずに、もうこのお店は一生店休日だ!って脳内が判断することありませんかね。

 

ないですか。

 

つまりね、店休日って看板よくみかけるんですが、その看板出すぐらいなら「水曜定休」とか、そういったわかりやすいタイプの看板にしてくれないかしらと思うわけです。

だって、急遽お店を休みにするときなんかは「本日、店主急用のためお休み、明日◯日はお店開けます」とか書いたりするわけですよ。なのに定休日に限って「店休日」とかって看板だけ出していて、いつが定休日なのか教えろよ!おい!!ってなるんです。

 

お店の人からしたら、いつも水曜日がお休みだからとかって感じで、そんなの言わなくても分かるでしょ的なスタンスなのかもしれないんですが、やっぱり分かりやすくしておかないと、それだけ来るかもしれなかったお客さんを逃している可能性があるんじゃないのって話なんですよね。

 

特に朝方に見かける「店休日」は、昨日の夜に出して今日が休みなのか、前の日が休みで今日は店休日じゃなくてこのあと開けるのかが絶対的にわかりづらい。

 

なので「店休日」って看板は、この世から消え失せてくれないかなと、そんな風に思っているわけです。

 

パンの生地をこねているると、なんだか気持ちがほっこりしてきます。

 

ちょっと感情が高まりすぎたので、脳内でパンを焼くための生地作りをして気持ちをしずめました。

 

とりま、おなぺこ。

自分には関係ないと思うことのもったいなさという話 in スマニューCCM3

ども @georgek5555 です。
数日前ですが、ニュースキュレーションアプリのスマニューが定期的に開催しているイベント「SmartNews Contents Creators Meetup」のvol.3に参加してきました。

今回のテーマはずばり「編集」だったのですが、vol.1、vol.2に比べるとテーマがテーマだけになのか、ずいぶんとブロガーと呼ばれる人よりも編集者や、故人個人よりもメディア運営者のほうが多かった印象でした。
いや、実際はどうなのかは分からないのですが、実際に顔を見たことがある著名なブロガーさんはあまり見かけず、編集サイドやライター業の人ばかり見かけた感じでした。

たまたまタイミングが合わなかったというのもあるのでしょうが、もしかしたら編集というテーマだけに、ブロガーにとってはあまり関係ないと考えた人が多かったのではないか?と勝手な推測をした感じです。

編集というところに触れる機会は、主にライター業をされている方か、メディアを運営する側にいる方ではないと、特に日本では直接関わることがないと思っている人が多いです。そう考えると、今回のテーマが編集だったので、興味がわかなかった可能性は拭い切れないところ。

ところが、これすごくもったいないなと思っていまして、ブロガーと呼ばれるタイプの人こそ、編集の話が聴ける今回のイベントはすごく貴重だし、参加したほうが良かったんじゃないかということ。

普段、1人でブログを書いていると、編集や校閲を通さずにそのまま投稿を公開します。人の手が加わらないからこそのよさというのはもちろんあって、例えばこのブログも、誰の手も通らないどころか、自分も見直さないという粗粗な文章だからこその勢いみたいなのがあって、僕のブログは読みづらさももちろんあるのですが、書きなぐりだからこそ出せる味わいもあります。

ところが、スマニューに掲載されてアクセスを稼ぎたいと考えるブロガーさんであれば、編集をするという作業は、むしろとても大事なんじゃないかなと思っています。

例えば、日本では多分非常に少ないんでしょうが、海外のブロガーの間では、個人のブログでも編集を雇っている人は以外にもそこまで少ないわけではありません。
なんかすげー有名なブロガーがインタビューに答えてたやつ、どこかにあったはずだけどなーと探したんですが、ちょっとわからなかったので、SEO Japanのこの記事を参照に。 

www.seojapan.com


 2014年版ではありますが、大見出しの2番のところにブログに編集がいるかどうかの記述があります。
ここでの解説では、企業ブログなどがほとんどであろうといった感じで書かれていますが、著名なブロガーは編集を雇うことを率先してやっているという話がありました。どこに記事があるんだろ…だれか教えてください。

そこで書かれていたのは、なぜ雇うかという問に、彼らは書くことに集中したいからだという話が書かれていました。
例えば、どこを太字にするのかや、引用する際のリンクタグ、見た目を整えるためのhtmlをいじったり、過去記事を探しだしてきて関連を貼りつけたり、写真の大きさを整えたり、校閲をして文章に間違いがないかを確認したりといった、そういった本来の書くこと以外の作業というのは、優秀なブロガーであればあるほど、誰かに任せてしまったほうがよい作業であったりします。

もちろん、それを自分でやることが大事だと考えるのもひとつなのですが、読者により正確で見た目が整った文章を迅速に届けるためには、編集を雇うのも手段のひとつだということ。

ただ、ここで断っておきたいのは、今回のスマニューのイベントが編集を雇いましょうという話ではなかったということ。
話的には、編集者というのは普段どういった頭で、クリエイターと接し、どういった思いで、エンドユーザーに届けようと考えているかという話でした。

また、テレビやラジオの編集者にいたっては、構成作家と共同で作業もすることが多いため、ネタ探しのプロセスみたいなのも、披露されていました。
こうした「編集が何を考え、何を大事にしているのか」といった話は、もし自分自身が編集者を雇わない選択をするのであればあるほど、大事な話だったんじゃないかなと思ったわけです。

編集を雇う人であれば、自由気ままにやって、編集がそこをうまく世間とすり合わせる作業をしてくれた方が、よりよいコンテンツが生み出されることは多いと思います。事実、この日の話でも、編集を入れたものと、入れてないものの比率は平均的に7:3で、オリジナルの文章をできるだけ残したいと考えていました。
編集の手が入れば入るほど、個人ブログの良さはどんどん失われていきます。個性を活かすと考えた場合、これはむしろ逆行していて、よくないでしょう。ただし、編集方針みたいなのをしっかり構築していれば、この個性が消えるという不安は実際にある程度解消されます。
んで、話を少し戻すと、編集を雇うのであれば、とにかく自分自身は好き放題(といっても限界があるでしょうが)やって、編集者にチェックをしてもらえばよいのですが、自分で全てをやる場合は、編集者視点も持ちあわせていないといけないため、たまにスムーズに動いていた手が止まってしまったり、余計な編集作業のために本来もっと書きたいことがあるのに時間が取られてしまうというもったいないことが起きたりするわけです。

編集を雇うまではなくても、家族や恋人、友人に校閲をしてもらった上で、公開をするというブロガーは海外では割りと多いようです。それは、ある程度数字を叩き出せるようになったブログでは、記事を公開するということがどういった意味なのかを理解しているからでしょう。

今回のスマニューのCCMでは、決してブロガーが編集を雇えばいいですよなんて話はこれっぽっちもなかったのですが、あえてCCMでこうしたテーマでやったのは、もしかしたら裏側にこうした海外の実情があったからではないだろうかと考えてみたりもしました。

ここまでだらだらと書いてきましたが、編集と聴いただけで自分には関係無いと考えて、そもそも見向きもしなかったとしたら、それは単に視野が狭いことを自分自身で認めているようなもので、非常に勿体無いなと思ったということを言いたかっただけです。

とりま、冬がはじまるよ。

ゴミの分別が面倒くさいと考えることがビジネス的にアレだという話

どもども @georgek5555 です。

渋谷のハロウィンはとんでもない盛り上がりでしたね。現地に行って色々レポったりしていたのですが、一番のハイライトは軽快な口説く文句でナンパしていたところをたまたま中継してしまって、それに気づいた女の子が恥ずかしそうに顔を赤らめていたのを観た瞬間にモエ・シャンドンしてしまったことです。るねさーんす!

さて、今回の渋谷ハロウィンの乱で、一番問題視されていたのが大量に放置されていたゴミの問題ですが、ああいった街なかにそのまま放置されるゴミというのは、ほとんどが全く分別されていません。
んで、それを回収して、さらに分別するというのは非常に大変な作業で、みんなが自宅に持ち帰るなりして、きちんと処理すれば、なんちゃことないことなんですが、それを見てふと、ゴミの分別について先日とある方と話していたことを思い出しました。

いつの頃からか、ほとんどの自治体の家庭ごみは最低でも可燃物と不燃物での分別が必要となっています。自治体によっては、分別の種類が多すぎて、分別する側からしたら非常に手間だと感じている人も少なくはありません。
んで、この前とある方の自宅で家呑み的なことをしていたのですが、その時に飲み物の缶やペットボトルと燃えるゴミを分けるのが非常に面倒だよねっていう話になりました。
確かに、その作業自体はめんどくさいのですが、これ自体は仕方ないことなので、やるしかないよねっていう話で落ち着いたのですが、こうした自宅とかで飲み会をするときに、最初から細かく「缶」「ペットボトル」「可燃」「不燃」みたいな感じでゴミを細かく分けるタイプの人と、とりあえず後で分けるから飲んでるときはいちいち細かく分けなくてもいいよみたいな人がいたりします。
さすがに最近は可燃と不燃は分けたりしますが、例えば自宅でゴミ箱に捨てるときでも、ペットボトルの周りのラベルを剥がしてから捨てるひとと、とりあえず一箇所にまとめておいて、後からまとめてラベル剥がしをする人なんていうのは割りと分かれます。

後からまとめて剥がすタイプの人というのは、そのわずか数秒の行為がめんどくさく、後からまとめてやってもいいんじゃないっていう風に考えているんですよね。

んで、いったいこれで何が言いたいかというと、仕事でもそうなのですが、細かい作業をめんどくさがって、後でまとめてしようとするタイプの人というのがまさにこれにあたるのです。
例えば、営業マンやフリーランサーは領収書との格闘があります。
会社によってやり方は変わると思うのですが、例えば会社勤めの方の場合は、所定のルールに則って、コピーをとったり、日付ごとにまとめたりなんかしなくちゃいけません。
これをめんどくさがっていたりすると、後からまとめて一気に整理しなくちゃいけないのですが、この後からまとめてやるという行為が非常に無駄で仕方ない。

先にちょこちょこやっておけば、後からまとめてなんてならないよね?っていうのは、ちょこちょこ出来る派の意見で、まとめてやる派からしてみれば、後からまとめてやろうと、ちょこちょこやろうと、合計時間は変わらないし、なんだったらまとめてやったほうが、効率がよくて時間短縮になると考えていたりするわけです。
実際にそれを比較した人がいないので、なんともいえないところですが、最終的な時間はそこまで変わらない可能性は確かにあります。しかし、後からまとめてやるタイプの人は、後からまとめてやろうと、ちょこちょこやろうと面倒くささは変わらないわけです。
ちょこちょこやるタイプの人は、そもそもそのちょこちょこを面倒くさいと考えない。

一番大事なのは、たぶん「めんどくさい」と考えるか考えないかの思考ではないかと思っています。
ゴミに置き換えるといいのですが、後から分別しようと考えると非常にめんどくさいです。ちょこちょこ分けていれば、最後はぽいと捨てるだけだし、ゴミの収集が来た時にも、さっと出すことができます。つまり、自分がめんどくさくないように、効率の良さを生み出しているわけですね。
ところが、後からやろうと考えるタイプの人は、後から分別するのも面倒くさいし、なんだったらゴミの収集を忘れていたときに、急に収集車がくると、もうゴミ出しすらもめんどくさくなる。
ここで、自分がやるのはめんどくさいから、お手伝いさんでも雇っているのであれば、ちょこちょこやるタイプの人と同じで、本当の意味でめんどくさくないように効率の良さを考えているわけですが、そうでない場合は、結局のしかかってくる面倒くささから、一時的に逃げているだけなんですよね。
つまり、いつまでたっても、その面倒くささを面倒くさいと考えないように効率よくすることが出来ないということです。

そして、だいたい後からまとめてやろうと考えているタイプの人の仕事は、非常に雑なことが多く、完璧主義者であればあるほど、雑にすることが嫌になり、最終的には全てを放置して逃げ出してしまうことも多いです。

こうならないためには、何が一番効率がよく、自分がほんとうの意味で最終的にめんどくさくならないかを考えるほうがいいわけで、それが出来ないのが、まさにゴミの分別が面倒くさいという思考で止まっている人なんんだと思います。

片っ端から、分別するし、かたっぱしから片付けていく習慣が染み付いている人は非常に効率がよいタイプです。しかし、それを習慣づけることがそもそも無理だという人は、もしかしたらやり方が悪いだけなのかもしれない。
人のやり方を真似してみても、自分には合わないということは決して珍しいことではないです。まず、どうやったら効率よくめんどくさくなくなるのかを絞り出すことが、実は仕事においても非常に大事なのです。

とまあ、その結果があとからまとめてやるだという人が多かったりしますが、あとからまとめてやるという人は、色々と仕事で漏れや抜けが多いタイプであることを理解していたほうがよいでしょう。

とりま、ブログも同じですね。

ブログ塾を開催してウケるブロガーになるぞーという話

どもども @georgek5555 です。

下ネタを言うことなんて個性じゃないと勘違いした結果、下ネタを連呼していたら完全にどん詰まって今日の朝ごはんも思い出せない状態の底辺ふろガーの僕が、ブログ勉強会なんてものを開催しようとした。

 

torima.hatenablog.jp

 

開催は11月1日と、まだ2日ほどはあるのですが、10名限定と数も絞って募集をしていた結果、今日のここまででの申し込みが、なんと0だったんです。完全に黒歴史ですね。

もしかしたら、ブログ塾を受講してウケるブログを目指すぞーって思っている人たちをターゲットにしていない、ブログを楽しもうぜみんな!みたいなのをやろうとしたのが良くなかったのか。
いや、単純に「おまえ誰やねん。やっぱすっきゃねん」と、あかんかったということでしょうね。きつく抱いてよ今夜は。

とりあえず、なんで開催しようかと思ったのかというと、たまーにブログやっている人とかと話すと、勉強会とかやらないんですか?ぜひ話を聴いてみたいです!なんて感じで、社交辞令をきっと言われていたのですが、心がピュアグミな僕は、これまで「いやいや、ぼくなんて…」なんてネガネガな感じのことを言っていたのを、10月に入ったあたりで、そろそろポジティブに捉えて、実際に開催してみよう!ということで、調子乗って開催してみたというだけなんですよね。

 

自分のことは自分がよくわかっているというやつで、どこにもそんな需要がなかったということで、これからはおとなしくインターネッツの片隅で、駄文を垂れ流しながら、文字を書くことに集中していきたいと想います。
FMラジオとかやっていれば、きっともっときたんです。FMラジオをやっている人は、ちゃんとイベントで集客できてたもん!やっぱ時代はコミュニティラジオです。

さて、とはいえ実はそんなに落ち込んでいなくてですね、こういうのはコンスタントに開催しつづけることが大事なわけです。ただ、もう勉強会みたいなのは需要が0なのがわかったので、また定期的に闇イベントを開催していこうと思う次第であります。
次は来月ですかね。忘年会の糞忙しい時期に開催して、申し込みが0でまたここで悲しみを吐露するまでが遠足です。

とりま、悲しみ。