とりま風呂

とりあえずまあ、はてブロでも。略して『とりま風呂』 by 常時系

サラリーマンを全否定という話

どもども @georgek5555 です。

あれよあれよというまに10月も終わりになって、そろそろ忘年会シーズンがやってきますね。年々忘年会の日程が前倒しになってきて、もはやネーミング自体の意味がよくわからなくなってきている気もします。

さて、時折いんたーねっつではサラリーマンという存在を否定する人がいますが、僕も今やフリーランスに落ち着きました。多分この先もずっとサラリーマンというのはやんないと思います。
サラリーマンをやっていた頃の方が、なんとなく時間にも余裕があった気がしますし、収入面に関しても特に心配事はなかった気がするのですが、それでも戻りたいと思わないのは、サラリーマンがやっぱり向いてないからなんだろうなと思ったりします。

しかし、サラリーマンという存在を真っ向から否定して「サラリーマンなんて辞めたほうがいいです」という人たちがいますが、あの人達はいったいどうしてサラリーマンをそこまで否定したがるんだろうかと、すごく心の闇を感じずにいられません。

特に、この時代は働き方の多様性がどうとか、そういった趣旨の文章とともに縛られることから開放されなさいみたいな、何シニエーションなのか分からない発言をみると、多様性を訴えかけているのにサラリーマンはなぜダメなのかが未だに疑問でしかありません。
そもそも、サラリーマンという言葉で一括りして全てを否定することがまったくもって疑問だったりします。
確かにかつての日本は、商店街の八百屋さんのように、個人事業主が今よりもなんとなく多かったような、そんな気がしなくもないです。
時代は核家族化していくのにも関わらず、ビジネスの世界は合併を繰り返し、モンスター企業がどんどん生まれ、中小零細は大きな会社にやさしく包まれて、どんどん大家族化していってます。
だからこそ、もっと個人事業者が増えてもいいんじゃないってことの裏返しだったりするのかもしれませんが、給与所得者のことを全否定することが全く意味不明だったりします。

サラリーマンを否定することで、フリーランスの俺かっこいいとか、そういう他人を下げて自分を持ち上げる的な話なら、まあ、別にいいんですけど、そうじゃないとしたら、どうしてそこまでサラリーマンと全てを一括りにして否定したがるのかが全然本当にまったくどうしてなのか分からないんですよね。

自分自身がサラリーマンだとして「もうサラリーマンなんて本当につまんねーよ!」とかさけんでいるとすれば、そっと井村屋の肉まん・あんまんを買ってあげたくなるのですが、自分がサラリーマンじゃないのに、サラリーマンをあえて目の敵にするのって、何かしら心に闇を抱えているとしかもはや思えないのです。

例えば、フリーランスになったばかりの頃に、凍えそうな季節に愛をどうこういってたら、酔っぱらいの広告代理店勤めのサラリーマン集団に突然絡まれて、気づいたら居酒屋の裏にあるゴミ捨てばでずぶ濡れの子猫のようになってたとか、予約制の馬肉屋でキラキラOLと合コンしたという話をタワマンに住む上場企業の社員に散々聞かされたとか、なんなら「さらり」とかいう女の子にラブレターもらって屋上行ったらヤンキーグループの彼女で「ごめんね笑」とか言われながら、目の前でオンザビーチされたせいで「さらり」「まん」という響き自体に嫌悪が走るとか、もうそんなんじゃないと、何でそこまで否定しなくちゃいけないのかわからないのです。

そもそも最近すごく思うのが、特定の存在や団体を一度嫌いになっちゃうととことん嫌いになるという人って、なにかしら心の闇を抱えているタイプで、仕方ないけど陰険になっちゃたのかなと、そんな風に思うんです。

僕も心の闇かかえてますよ…ゾワッ

とにかく、働き方の多様性がどうとかっていっているのに、サラリーマンを否定するっていうのはなんだか矛盾してませんかというのを書こうと思ったら、いつの間にかダラダラ長くなってしまって、自分の心の闇までさらけ出すことになってしまった感じです。

とりま、時代は田舎暮らし。