かもめが飛んだという話
このお風呂も久しぶりですね。
昔の自分の駄文を読むと、なんだか勢いがあっていいですねって思います。今でもちょいちょい見にきてくれてる人がいて、微細でもアクセスあるのは嬉しいこと。
たぶんほぼ初めて、はてなのアプリで書いてます。
どんな風にどんなことを書いてたのか、すっかり忘れてます。たぶん、ここにはもう熱湯風呂はありません。押すなよ、押すなよ。
今日は、割と普通に話を聞きにいっただけなので、特にそこまで何かしらの感想を書き下ろすこともないです。とりあえずハゲ子さんは、激しく喋ってました。いや、むしろ穏やかでしたね。
せっかくなのでお茶な人をヲチしようというのが一番大きい理由でしたが、たまにこうしてばっくとぅざべーしっくな会に参加すると、色々と見失いそうなことに気づけたり、新しいアイデアが浮かんだり、人前で話すことのアプローチの幅が拡がったりと、とりあえず色々と身になるので良いのです。
一時期はとりあえず色んなイベントに行ってみてたこともあったのですが、行ってみたら、なんで今日ここに時間を割いたのだろう…ということも少なくありません。それは、話してる内容がどうとか、そういうレベル以前のものが多くて、おそらくいちばんそう思わせるのは、主催者=登壇者のイベントのパターンの中で、主催者があまりに持論に酔ってるケースだと思います。
信者の方々はそのほうが「教祖様!」となれるので、楽しいと思うのですが、入信する前の人間にとっては、ファミレスの角席で、2人+1000万の入った通帳を見せられてる、あの感覚に近く、非常にいたたまれない気持ちになるんです。
今日の会は、そういう感じが微塵もなく、そのあたりはさすがと言いますか、静かに楽しめました。少し引いてイベントを俯瞰してると、むしろ参加者の方の一部に、もっと教祖感を求めてそうな人はいたような気がしますが…
どちらかというと、個性豊かな参加者のみなさまをヲチしてるほうが、ヲチ的には楽しかったかもしれません。ヲチ武者。
ヲチとはなにかと聞かれ、Hagexさんは「そうですね…(めっちゃ中略)暇つぶしなんだと思います」と、仰ってました。
ご本人は割と冷静で、暇つぶしと語るだけあって、よく名前が登場する方達を、徹底的に潰したいわけでもないのが改めてわかりました。むしろ参加者のほうが悪意感じる嘲笑があったような気がしますね。こんなこと書いたら私も叩かれるのかしら。誰も読んでないと思うけど。
僕自身の今は、静かにネットのネタをツモり続ける毎日で、特に鳴きもせず、和了ることもせず、淡々と眺める毎日。もう、みんながワイワイ悪意で叩くのも見てて疲れますし、どうでもよいです。そんなことより、茜色に染まる夕空をSNSにアップして「#イマソラ」とか書いてるほうが楽しいです。
今日は帰り際、挨拶させていただこうかと思ったのですが、「おま、だれよ?」と言われても辛かったのと、みんなHagexさんの手をニギニギしたそうだったので、サラッと帰りました。ゆりかもめに乗って。また豊洲でやるなら近いから来やすいな。
ハーバーライトが朝日に変わって、かもめが一羽また飛ぶころ、近くにいたら眺めに行きたいと思います。
とりま、絶対押すなよ。
風呂香の終焉という話
風呂上がりの香りっていいですよね。ふわっと鼻にやってくる、あの柔らかな香り。その行先が例え男であったとしても、一瞬柔らかな女性の肌を想像するのは、僕が単に普段からいやらしいことばかり考えているからですかね。
さて、ひさしくブロガー話を書かなくなった最近なのですが、なにやらブロガーが終わっただというようなお話が流れてきまして、ついつい久しぶりにお風呂をぬるめに入れてみることになりました。
一体なんのことを言ってるのというひとは、恐らくこのブログを開いてないでしょうから分かる人だけ分かるよねっていう感じで進めていきますね。
ザクッと話をしてしまうと、色々とレビュー品の乞食をするブロガーたちのせいで、ブロガーというジャンルが終わったよね!っていうことを、短い短文でサクッと論じている人がいまして、その文章自体には、賛同できるとこもあり、賛同できないところもありという感じです。
まず、ブロガーとひとくくりにしちゃうのはどうなんだろうというのがあるのですが、そもそも別にいいんじゃね?っていうのが個人的な感想。
いやいや、オマエ昔批判してたじゃんっていう人もいるでしょうけど、最初からそこを目標にブログやっているひとはそれはそれでいいじゃないの?っていう感じです。
ブロガーというジャンルには、かなりいろいろな人たちがいるのですが、中でも有名ブロガーが物もらってレビュー書いてるのをみて「僕も物もらってレビュー書く人になりたい!」と、夢見るアドレセンスな人がいてもおかしくないわけです。
そういうオネダリ系ブロガーさんは、最初から物をもらって書くことを夢見ていたわけで、そのために日々がんばって色んなところに両手をスリスリしながら、ようやく物もらいのバラッドが奏でられるようになったので、そういう人をいちいち批判するのは、的外れだと思うわけであります。
問題なのは、物もらってるのにもらってない体でレビューを書くシステマ系ブロガーと、色んなところにいっては「物もらえないの?!はあ!!」って言ってる、謎めいた人たちぐらいです。大丈夫です、システマやってるんで。
やりたいことをやる、言いたいことを言う。果たしてものをもらっているからと言ってそれが出来てないかといえば、全くもって根拠がないでしょう。根拠を明示しないで批判するのは、僕でもできちゃうので、多分このブログ程度の駄文だってことだと思います。
たぶん、エネルギーが余ってたんでしょうね。
とりま、明日から沖縄。
恋愛はFacebookのカラーテストだという話
コーヒーって黒いですよね。でも、赤いとも言えませんか?そうでもないですか。
さて、Facebookをやっている人なら、時折みかけるカラーテストのシェア。
どっちの赤が薄いとか、どっちの青が濃いとか、微妙な色の違いを答える簡単なクイズで、結果が「あなたはわずか3%しかいない、奇跡の目の持ち主です」みたいなやつありますよね。
あれって、みんな「本当に3%の1人なの?」と思いながらも、なんとなく選ばれし人間のような気がして、嬉しくついついシェアしていたりします。
しかしながら、実際に同じ問題を解いた人のシェアをみると、一様にして「あなたは3%」になっていることって結構ありますよね。
むしろ「あなたは80%くらいのどうでもいい人です」みたいなのは見かけない。
もちろんシェアした人も、同じように「みんな同じかな?」と思いながらも、それでもなんとなく「俺も3%だった」となんて、喜びを分かちあったりしています。
全てのクイズ問題がそうだとはいいませんが、答え合わせをしてくれないタイプのやつは、おそらくほとんどどんな風に回答しても「3%」とかになるんだろうと思います。
そんなことして意味があるのかって言われると、サイト運営者側からするとすごく意味がありまして、理由としては以下のような感じでしょうか。
1.喜んでシェアすることでアクセスアップ 2.ページ推移させるタイプは総PVもあがりやすい 3.PVがあがることでドメインも強くなる 4.簡易な問題で安心させておいて、そのあと個人情報抜くタイプの問題をさせる 5.一部はアプリ認証させることで、後ほど乗っ取りさせていただく
他にも色々あるでしょうけど、あの手のやつはだいたいこんなところでしょう。
乗っ取りや個人情報は置いておくとして、ほとんどの人はPVがあがろうがどうでもいいので、ちょっとした時間の好きなに空いた小腹を解消させられればいいので、深く考えないでしょう。
深く考えないけど、選ばれしものだということに非常に満足する。
しかし、たまにこうしたサイトが「詐欺サイトだ!気をつけろ!3%は全員だぞ!」というのが出まわると、本当はわかっていたくせに「騙された!許せない!」なんて怒り出したりします。
なんかこれってちょっと恋愛に似ているなと思ったんですよね。
恋愛って「あなたは私にとって世界にたった1つだけの花」と、他に代わりのいないオンリーワンだと、お互いそう思って交際がはじまったりするわけですが、実は相手に浮気相手がいるとオンリーワンじゃないことに気づいて怒ってしまう。
もちろん、ゲスな浮気を肯定するわけじゃないのですが、浮気症の男で、他にも女がいそうだなと思っていたとしても「君は選ばれしものなんだよ」と言われると、なんとなくそうじゃないと思っていても、信じたくなるものなんだなと。
みんな選ばれしものになりたくて、でもなれなくて、なれるかもしれないと思ったら嬉しくて、ついそこに身を預けてしまう。
一途なタイプの人よりも、浮気症のタイプのほうが平気で「あなたはオンリーワン」って言っちゃうし、そういう人の方が、さらに多くの人を引き寄せる。
ふと気がつけば、騙されているかもしれない。でも、その喜びに心躍ってしまったことを信じていたい。
自分では、相手の色を見極めたつもりでも、本当にその答えがあっていたかなんてよりも、ただ「あなたは特別な人」という結果を求めて、僕らは日々、王子様やシンデレラを探しているんだなって。
とりま、私以外私じゃないの。
バズるというのはそもそも心に寄り添うことだという話
桜が舞い散ってますね。忘れた記憶と君の声が戻ってくる感じがします。ひゅるりら。
さて、とある仕事仲間が「バズる記事はかけないけど、心に寄り添う記事を書いていきたい」といった発言をしていました。
この発言をするまでの経緯はさておき、この一文だけをみると、僕は「おい!それは違うぞ!ワックMC」と思わず言いたくなってしまうのです。
「バズる」というフレーズは、ブロガーやライター、広告関係などといった、日々そこに向き合って葛藤している人たちだけじゃなくて、今や当たり前に使われる言葉になってきました。
そうね、Buzzfeedがローンチしてから、なおのこと「バズね。バズ。わかるわー。あれでしょ?バルスしちゃう少年でしょ?」なんていう人はいなくなったと思います。
そもそもバズとは、蜂が羽をばっちばちさせて、ブンブン飛び回っている音というところから、ネット上で爆発的にわーわーなることを指して使うようになりました。黄色い空でぶんぶんぶん。
んで、一時期のパクリバイラルメディアブームとかもあって、いつの間にか「バズ」って、読者を騙してクリックさせたり、炎上させてアクセス稼いだりみたいな、そういった手法のことだと勘違いする人が増えているなって、すごく思うんですよね。
色々なライター講座とかいくと「タイトルが命!」「サムネイルが命!」「芸能人は白い歯が命!」みたいな、感じでよく言われるんですが、その言葉を「あータイトルでひっかければいいんだ」「サムネで騙せばいいんだ」「歯は白く塗っていればいいんだ」と勘違いする人も多くいます。
あくまでも、僕の意見かもしれませんが、それって全然おおきく間違えていて、そうだと思っているならば、多分本当の意味でのバズなんて、その人には無理だと思うんですよね。
バズというのは、そもそもネット上がわちゃわちゃする様子を表しているように、読んだ人たちが「ココロオドル」ことで産まれるものなんですよね。
例えば、その記事が月間1億PV超えしているような、放っておいてもある程度勝手に読みに来てくれそうな媒体なら、多少は「タイトル」と「サムネ」だけ整えておけば、なんとなく読まれることもあると思うんです。
でも、中身が伴わないなら、その記事はシェアされることも少ないだろうし、いわゆる共感も反感もなんも生まないので、結局のところ「バズ」にはつながらないんですね。
前述したライター講座で「タイトルとサムネが命!」って言っているのは、せっかく良い中身を書いても、読者に届かなければ意味がないから、届けるためにはまず開いてもらうようにしましょうねって、新聞や雑誌、なんなら書籍とかと同じことを言っているだけなんですね。スポーツ新聞だって魅力的なタイトルがなければ、いつも買わない人は手にしないし、週刊誌だって魅力的な見出しや写真が踊ってなければ、手にすることが無い人は多いし、書籍だって全く同じ。
でも、それらの中身が全く無かったら、それこそ拡がりはないんですよ。バズらないんです。
いんたーねっつだって同じだってだけで、中身が無いものが盛り上がるのは、ある意味奇跡に近くて。
有名なバズ請負人のライターさんとかが、最近重宝されてるじゃないですか?彼や彼女に頼めばバズるって。
だけど、彼女や彼らは、なぜバズるかって、そりゃ固定の読者もいるけど、固定の読者がいるからこそ、中身に妥協をしないし、そもそも普段からネット民たちの声を聴いているし、見ているからこそ、そこに寄り添って、わちゃわちゃさせれるようなココロオドルコンテンツが投下できるわけですよ。
炎上系の人だって、全くおなじ。何が燃えて、何が燃えないかよく知っている。キャンプにいって、焚き火をしようとしたときに、普段アウトドアとか行かない人は、その辺からまだ全然古くない新木を持ってきたりするんですね。あと、その辺に生えてる雑草とか。でも、経験者なら、水分を多く含んだそれらは燃えづらいことを知っているから、枯れ木を持ってくるわけです。どうやったら火がもっと大きくなるかもよく知っている。炎上系の人はそれを熟知しているから、炎上させられるわけです。
んで、話は戻るわけですけど、そういった人たちが身につけたテクニックって、結局は読者の心にいかに寄り添って、ココロオドルことができるかってことなんですよね。
つまり、バズる記事を書くために必要なことって、心に寄り添う記事がいかに書けるかが大事で、読者の気持ちを無視して「こんな風に書けばみんなわちゃつくでしょ?へっ」ぐらいに考えているものは、もしかしたら一瞬ボワッとするかもしれませんが、そんなインチキおじさんは、へのつっぱりにもならずに消えていくだけです。
心に寄り添う記事って難しいとは思うんですけど、まず何よりも自分がココロオドルこと、そしてその自分の感動が、どれだけ多くの読者と共有できるかということに尽きるのかなと。
だから、冒頭に書いた彼に言いたいことは「バズると心寄り添うがイコールじゃないと思っているなら、それこそ大きな間違え」で「そんなんだ一生バズんねーよ!」ということです。俺らの羽は心に生えてんだよって。ココロオドルこと、それがバズなんだよって。
とりま、呼応する心、響き続ける。
いつからパンツスーツのショートカットに心躍るようになったのかという話
街角には桜の木、桃色のきらめき。咲いてんなぁ、飲んでんなぁ…って感じの季節ですね。
さて、さっきパンツスーツにヒールを履いてさっそうと歩くショートカットの素敵な女性を見かけて、おもわず桜なんてどうでもよくなってしまったんですが、僕はいつからその姿に心踊ろうようになったんだろうと疑問が湧き上がりました。
10代から20代くらいまでは、むしろきわっきわのミニスカ女子の方がスキだったし、むしろ子供っぽいロリ顔な女性がスキだったんですが、いや、今でも大好きですが、ある時から突然パンツスーツにショートカットで颯爽と歩く女性に心が踊るようになったんですね。
パンツスーツなんて、ぜんぜん性的な香りしないし、ショートカットもそんなにスキじゃなかったんですが、なんでなんでしょうね。
昔から年齢を重ねると好みが変わるとか言われてましたし、おっさんたちからは「わかってないなー。そんなガキっぽい女よりも・・・」みたいなことを言われるたびに、好みの問題ですからねって思ってたんです。
ましてや、どっちかというとMっぽい女の子の方がスキだったのが、最近は極Sな雰囲気を漂わす女性にも心をときめくようになってしまったんですね。今でもMい女の子はもちろんスキなのですが。
まてよ、こうやって書いてみると、結局どっちもいいわけじゃんなと。
つまりは、まだ経験が浅かった若いころは、ある一定の好みの女性としか経験をしてこなかったので、自然と好みの幅も狭かったのが、年齢を重ねるにつれて、様々なタイプの女性とダイブイントゥザブルーをしていくことで、好みの幅が拡がったということなのかなと、今ふと思いました。
こんなSっぽい女の子絶対無理やわーとか言ってたんですが、Sな女の子とのめくるめくドリームランドもそれはそれで楽しくて、Mな女の子とのプレイステーションポータブルも、楽しかったわけで、そういう経験が蓄積されていくことで、自分の中での好みの引き出しが増えたということなのでしょうね。
そうそう、前は身長が低い子がすきだったのが、身長が高い子もスキになったし、顔は犬顔のほうがむしろスキだったような気がするんですが、いつの間にか猫やら爬虫類もスキになったんですね。それどころか、大事な要素は顔じゃなくなってきて、そりゃもう顔がタイプとかスキだとか思える相手だと、絶頂のいただきがバベルの塔クラスに天国に近いのはありますけど、顔がタイプかどうかよりも、フィーリング・グッド、イッツパラダイスな方が大事な風に変わったんですよね。
たぶんそういう積み重ねが、パンツスーツのショートカットを見て「ええわあ」ってなるようになったんだろうなって。10代の頃にパンツスーツのショートカットと、まことしやかにアバンチュールなんて経験する機会すくなかったから、そう考えるとそうなっていく理由がわかるなーと。
むかし歳の離れた先輩が、人妻モノを見て興奮するという話に「いやいや、人妻モノはないですよ」って返したら「俺らくらいの年齢になると、人妻モノといっても年下だったりするんだよね」っていう話に、なんとなく納得してんたんですけど、たぶん年齢が下とか上とかじゃなくて、人妻モノに出てきそうな女性と逢瀬を重ねた経験があるかないかなんだと気づいたんですね。
それこそ中高生の頃なんかは、JKものやJDものといった身近な存在から、ナースや女教師といったふれあう機会があるものが人気が高かったと思うんです。それって、たぶん普段から触れ合っていて、妄想していることが、そこで具現化されるからなんだろうなと。
つまり、年齢を重ねていくと、経験が増えていくことによって、様々なタイプやシチュエーションに興奮を覚えるようになっていくんだなと。
これって、性的な話だけじゃなくて、仕事とかでも同じことで、経験を重ねることで、想像力がさらに倍増していくので、何事も経験することは、その先につながる未来へ飛躍しやすくなるんだなと。
経験もせずに、頭の中で、いわゆる机上の空論で話をしていても、実感がわかずに、いまいちそのプロジェクトに面白さを見いだせないのってそういうことで、僕も仕事でいろいろな企画とかを立てると、経験が無い相手は全く実感がわかずにワクワクもしないし、いいアイデアも出てこない。
ところが、一度プチでもなんでもいいので、経験をさせたあとだと、同じ議題で話していてもアイデアの出方が違って、それは経験したから想像しやすいというよりも、意欲が湧きやすいというところの話なのかなと思うわけです。
会議とかで「いまいちみんないいアイデア出さないなー」っていうのは、とどのつまりその会議を「楽しい!」とか「わくわくする!」とかそういった感情が沸き起こってないことが原因なんだろうなと。
何事も経験を増やしていくことはいいことだし、仕事でチームのメンバーがもりがっていないときは、とにかく一度擬似でもなんでもいいので経験させることが必要なんだなと思った次第です。
とりま、擬似ばかりだと上原亜衣さんに怒られますけどね。
そういうイメージで思われているなら抗う必要はないという話
桜が咲き始めて、今週末から徐々に花見が始まっていますね。個人的には夜桜を静かに眺めながら、ひっそりと飲む缶コーヒーが美味しかったりします。頑固にあんときの夢どこに?
さて、特に怒りをふりまいているわけでもないのですが、よく「恐い人だと思ってました」と言われるのですが、こんなにも穏やかで小田和正な人間はいないと思っているのですが、それどころか、それなりに知っている間柄なのに「怒らせたら恐いじゃないですか」と言われたりします。
そんなこと言われたって、別に怒ったところで、戸籍を抹消してこの世に存在していないことにしてやろうかってくらいで、別に何も恐いことはないと思うんです。
実際に、ある程度成人してからは暴力沙汰もありませんし、怒鳴り散らすことだって、相手が包丁もってつっかかってきた時ぐらいで、基本はニッコニコニーとアヘ顔ダブルピースしながら生きているんですね。
なので定期的に言われる「恐い人かと思ってました」に対しては、常に「いやいや平和主義者ですよ」「いつもミノ食って笑ってます」って言ってたんですが、よくよく考えたらもう今さら抗っても仕方ないなと思うようになってきました。
というのも、いわゆるネットで見ている印象と、実際に会った時の印象が違うって、個人的には中指1本オロナミンファック!なんですよね。
でも、僕がそういう印象を持たれているということは、ここで実際に会った時に「実際に会うとすごく優しい人」なんて言われるのは、そりゃもうアウトなんだということです。
だから、はじめましての人には常にリボルバーをちらつかせながら「ん?死にたいの?」って言うぐらいのほうが「わー!すごい!イメージ通りだー!」ってなって、ファンが増えるんじゃないかなって。ふえるワカメってついつい多めに増やしちゃいますよね。
特に多いのが「Facebook申請してもいいですか・・・」というのやつなんですが、そういえば今までもお会いしたことあったのに、申請してなかったなって思って「もちろんですよー!ありがとうございます!」って返すと「申請したら怒られるかと思ってました・・・」ってレシーブ&トス、スパイク!ってされるんです。
友人申請して怒るってどんなだよって思ってたんですが、そういえば全然知らない人からノンメッセで申請くると「うりゃ!」ってキレてた気がするから、そりゃもう間違ってない印象なわけですよね。ちなみに、その他フォルダーはしょっちゅうチェックしてます。全然来ないけど。
話が逸れまくりましたが、もうここまで来たら恐い人イメージを壊さずに、常にピリピリした感じだして、初めて会う人には、突然「ah!yeah! はじめまして、からはじまる挨拶 だけど握手はしたくないスタイル 隙を見つけたらナイフでKILL 背中見せたら不意打ちダイブ!」みたいな感じで、フリースタイルラップをけしかける感じにしようかと思います。ワンツー。
話が脱線しまくりましたが、つまりは恐い人と思われているなら、特に否定することもなく、そのまま受け入れていこうと思ったということを、ここまでダラダラと長く書いたわけです。
とりま、書いてくマイライフ。
失敗した理由を説明させるのは実はよくないという話
先日、このあとしばらく食事ができないからと、立ち食いそばを食べたあと、打ち合わせにいったら「食事しながら打ち合わせしましょう!今日はおごりますよ!」と言われて、日本中の立ち食い蕎麦屋を破壊したくなりました。
さて、人は誰しも失敗をするものです。失敗しない完璧な人間なんて、果たしているのでしょうか?GACKT先生だって、連勝記録が途絶えるわけです。とはいっても、あれはGACKT先生が失敗したんじゃなかったんですね。じゃあ、GACKT先生以外は失敗しますよね?そうですよね?それ前提で話をするので、そうですって言っておいてください。
んで、これが例えば仕事だったりすると、なぜ失敗したかというのを、上司が部下に説明させることよくありますよね。「怒ってるんじゃないんだよ?わかる?次に同じ失敗をしないためにも、なぜ失敗したのか考えよう!しんきんっぐ!」て感じで、怒っているわけじゃないから説明してごらんって感じになりますよね。うん、そうだねプロテインだね。
んで、これって、けっこう正しいマネージメント方法みたいに思っている人が多いし、僕も昔はそうやって「いいから、怒ってないから説明してごらん?ほら?大丈夫だから…ほら…ほら!!!おこってないってえええ!!!!言ってるだろうがああああ!!!まだ子供が食べてるでしょうがあああああ!!!」って、そんな感じで、失敗の理由を説明させていました。
でも、これ、実によくないと今は思っています。
まず、第一に「怒らない」って言っておきながらだいたい怒るから。
いや、表向きはおこならないんですよ?でも、その場では怒らないのに、数日経って違うミスとかした時に「おまええはあああ!!!この前もあんなミスやこんなミスもしただろうがあああ」みたいに、忘れてくれてないんですよね。なんだったら、そんなレベルじゃなくて、1時間後とかに「お腹すいたなあ…」とか言っただけで「おまえええはあああああ、今日はミスしたばっかりなのにいいいい、お腹がすいただとおおおおおお」みたいな感じで、某県議ばりのわけわからない叫び声をあげたりするわけです。じゃあ「怒らない」って言うのやめようよと。
んで、さっきまでのは軽いジャブとして、一番問題なのは「失敗した理由」を話すことによって、次失敗しないようにできるという浅い考えなんですよね。
そもそも、失敗したら「失敗した理由」なんて、本人はだいたいわかってるんですよ。その証拠に「なぜ失敗したか理由を説明しろ」って上司も言ってるわけで、本人がわかっているなら、説明してもどうしようもないんですね。
なぜ失敗したかを説明するより「どうしたら次は失敗しないか」を考えるようにしたらいいんですね。
おい。それって同じことだよ。たこすけ。
って思っている方。同じなんですよ。同じなんだけど「失敗した理由を説明しろ」という1stステップ要らないじゃんって話なんです。会話の流れ的には説明させるパターンだと
「失敗した理由を説明しろ」(アングリー!)
「はい…かくかくしかじかで」(ネガティブ!)
「じゃあ次どうやったら失敗しないのか?」(ちょっとアングリーだよね?)
「はい…こうこうこうしたら」(ネガティブ&ハートブレイク)
「それで解決するの?また失敗するんじゃないの?」(圧迫面接なの?)
みたいな感じになりますね?これが1stステップをなくすだけで
「お、じゃあ次はどうやったら失敗しないんだろうね」(前向きな)
「今回は◯◯が原因で失敗してしまいました。次からこうこうすればうまくいくと思います」(前向きじゃない?)
「よし、じゃあ次もし失敗したらまた失敗しない方法を考えよう。頼むね!」(なんか頼れる系)
「はい!PDCAをまわしつづけていきます!」(一生まわしてろ!)
みたいな感じなんか雰囲気よくありません?だいたいですね、失敗した理由を説明させられるときの、あのハートブレイク感は半端ないじゃないですか?だったら、そこ端折って、明るい未来に向かって希望を胸に、前に進んでいきましょうよ!って話なわけです。PDCAまわしていきましょうよ!
そろそろレゲエのサウンドにのせてタオルをまわしながら「まわせ〜〜〜P・D・C・A」なんて歌が出そうですね。湘南乃風か豊満乃風あたりがやってくれないですかね。
とりま、いざ書いたらどーでもいい話でしたね。
PVがモチベになる人こそPVなんか見ない方がいいという話
ども @groegk5555 です。
ひさしぶりに、はてなのウェブから書いています。普段はMarsEditという、CMS用のアプリで書いてたのですが、Macをひさしぶりに買い換えて、まだ設定ができてないからです。こういう時に限って、ふと書きたくなるものですね。
ブログをはじめたばかりの人から、ある程度やっている人まで、だんだんとブログの更新が義務みたいになってきて、毎日更新するぞおりゃー!と意気込んでいる人でも、なかなか継続するのが難しかったりします。
特に、はじめたばかりは、それこそあんまりよくわからないから、とりあえず書いているって感じだったのが、徐々に知識が入ってきて、ブログの体裁ふくめて気合が入りまくっていって、そのうちに書くことの敷居があがって、更新が滞るなんてことありますよね。もちろん忙しいからかけないってこともあるでしょう。
そんな続けていきたいけど挫折しそうだという人がたまに発言するのが「PVってモチベになるよね。YO MEN!」ってやつです。
これは、ブログのPVが徐々にあがってきたり、何か書いた記事が、たまたまスマニューの猫ちゃんねるに拾われて、思いの外数字が伸びた時なんかに、出てくるワードだったりするのですが、彼らいわく「PVが跳ねると、続けてよかったとおもう!」だとか「リアルタイムですんげーアクセスきてる!まじでサイコー!やっほーぶるーいんぐ!よなよな!」って感じで、すごい喜んじゃうんです。
これは、ある程度ブログをやったことがある人だったら、それなりにうなずけることだと思うのですが、いや、もちろん一部の達観したタッカン君は別として、かなりの数の人が「PV=モチベ」っていうのを思っていたりします。
ところが、これって、逆にいかんのですよね。
PVがあがると嬉しくてモチベになると思っている人ほど、実はPVなんか見向きもしないほうが良い理由はいくつかあります。まずは、PVが落ち込んだ時に気持ちもダウンしてしまうということです。
継続的にずっとPVが上る人はいいんです。でも、ほとんどの人がそうもいかない。ある日たまたまスマニューの話題タブに入ったことで、その日のアクセスが通常の10倍とかになっちゃった日には、そこからの落ちっぷりの半端なさに、もう立ち直る気がしなくなります。あの日、あの時、あの記事で、PV跳ね上がったから、僕らは頑張ればPVあがるきがするって思って頑張っても、一向にあがらないとき、それはある意味モチベを保つことが難しくなる=死を意味するからです。
結構こんな単純な理由で、続けなくなった人っていっぱいいるんですよね。
そして、次に浮かび上がるPVなんか見向きもしない方が良いのは、ことあるごとに言われている、PVジャンキーになっちゃうからってことです。
PVを稼げばモチベになる→PV稼ぐための記事を書くぞ!→まだ電脳少女で消耗してるの?って書けばいいの?→ゴシップいくぞオリャ→下衆の極み貶め
みたいな、悲惨なことになっていくんですね。こうなってくると、もはやなんのためにブログを続けていたかわからなくなったり、そもそもPVがモチベとか言ってるから、もう自分がよくわからなくなっていったりするわけです。
そして、何よりも、これらの理由から、PVなんか見向きもしないほうが、自分らしくいられて続けて行きやすいんじゃないかってことです。
Googleのアナリティクスなりのアクセス解析と毎日にらめっこするために、僕らは生まれてきたんじゃないってことに気づくと、意外と何にも思わずにブログを自分らしく続けていくことができたりするもんなんですよね。
ブログでお小遣い稼ぎしようだとか、そういった人は今はnoteにでも行ったほうがいいでしょうし、それこそお金稼ぐならブログっていうよりアフィリエイトに力を入れて、PVじゃなくてお金を指標にしたほうがよっぽどモチベになると思うわけです。
んで、そうじゃない人は、PVなんか全くみずに、なんならアクセス解析なんかそもそもつけずに運用した方が意外と健全で、そうすることで「どうやったらコメントしてくれるかな?」とか考えたり、逆に読者側はどうやったら書いている人に思いを届けられるかな?って思ってこころばかりのシェアをしたりとか、そういった他のアクションが生まれると思うんです。
最近、ウェブ系メディアがPVをKPIにするのはもうやめようみたいな話がよく出てきていますが、それこそ個人のブログなんて、とうの昔にPVを指標にするのはやめたほうがいい流れはきてたわけで、こずかい稼ぎや生活したい人はお金を基準にしたほうがいいし、単に自己主張したいだけならそもそも誰かのアクションとか気にしないほうがよっっぽど好き勝手書けるし、ファンを増やしたい人なら、PVとかよりもそうじゃないアクションに重きをおいたほうがよっぽどゴールに近づけるのではないかと思うわけです。
PVがモチベになるって思っている人ほど、PVなんか全くみないほうが、よっぽど気持ちが落ち着きますよってことを言いたかっただけなんですが、なんだかまるっと長くなってしまいましたね。いつものことです。
とりま、そろそろ花見ですね。どこかで会いましょう。
人生は思い描いてる3割も叶いやしないという話
冒頭に自己紹介するのダサいからやめときなよベイベーって、どこかのロックなあんちくブロガーが言っていたので、今後は積極的に全然関係ない人の紹介をしていこうかと思ったのですが、めんどくさいのでやめておきます。
さて、年齢を無駄に重ねていくと、色々なことがわかってくるというのは、だいたい安い居酒屋で隣にたまたま居合わせたおっちゃんから聴こえてくる言葉なのですが、おかげさまでぼくもなんだんかんだで、いわゆるアラフォーになってるんですよね。つまり人生的には折り返し地点。
ここまででなんとなくわかってきたことというのは、将来こういうことしようとか、大人になったらこんなふうになっていたいと考える3割も叶ってないんじゃないかということ。
えーそんなの悲しいよねって思う人もいるでしょうけど、僕は割りと悲観的に捉えてなくて、それでも3割近くは叶えてきています。ガキの頃の自分には、自慢してやりたいこともいっぱい叶えてきてるし、言ったとおり実現して、まさにナポレオン・ボナパルト的な名前の人が言ったか言ってないかよくわからない、成功法則的なあれは、確かに成し得てるなーと思うこともあるのです。
3割近くしか実現していなくても全然悲観的になってない理由としては、僕は単純に思い描いていた未来がもっと大きかったんだろうなってこと。
小さい頃から、いろんなおっさんが「大人になっても半分も描いたとおりになってない」というのを散々聞かされていたので、少年じょじたんは「じゃあ、ありえないくらい巨大な妄想を描いていたら、3割でもシアワセじゃん」って思うようになり、いつしか本当に妄想だらけのひどい少年時代を送ってました。
なので、あの頃描いてた未来からすれば3割以下しか叶ってないけど、それでも悲観的にはなってなくて、さらに言うと、まだ実現していないことが7割以上も残っているから「もういつ死んでもいいや…」みたいな悲観的なことにはならずに、毎日わくわくすんぞオラ状態になっているんですね。
仕事なんかでは、キャパシティ以上のものを受けてしまって、もうてんやわんやしてしまうこともあるのですが、将来のなりたい自分は、ちいさくコンパクトにして100%目指すより、僕的にはでっかくでっかく目指してまずは3割、そして最終的には10割いけるようにやっていこーってなるほうが楽しいんです。
あれ、何を言いたいかよくわからなくなってきましたけど、つまりはおっさんらが口をそろえて「半分も…」みたいなこと言ってるんだったら、そもそもの夢をでっかく持ってたほうがいいんじゃないですかね?ってことを言いたかっただけです。
憧れの女の子に好きと伝えることを夢描くよりも、一緒にベッドのシーツで魚になってボーイミーツガールを歌いませんか?って方が、きっともっと前進できるかもって話でした。
とりま、今夜一緒に踊りませんか?
社内営業ばかりの会社は鈍化するという話
近所に二郎インスパイア系のお店が出来たのですが、野菜を摂ろうと思った結果足繁く通うことになり、カロリー過多な状況です。
さて、僕はこれまで業種でいうと30種類以上で働いてきて、フリーランスになってからは更に様々な企業の方とお付き合いをさせて頂かせていただけているのですが、そうした中で気づいたことといいますか、思ったことがありまして、それが「社内営業ばかりしていると会社は鈍化する」ということです。
僕は色々な職種を経験した中で、営業マンが割りと多かったのですが、営業マンの仕事をしている時は、外部への営業だけでなく「社内営業」もしっかりとしないといけないとよく上司に教わってきました。
具体的には、経理のお姉さま方としっかり仲良くしておくことから始まり、上司へのほどよいゴマすりや、清掃のお姉さまへの気配りまで、しっかりと社内の人たちへも営業をしておくことが、デキる営業マンになるコツだみたいな話です。
当時は会社員だったので、そうすることで働きやすくなるし、出世も早かったりで、いいことづくめだったのですが、フリーランスになってからは、社内営業をする相手がいなくなったことで、ふとこのカンナムスタイルを冷静に見つめるようになったわけです。オパカンナムスタイル。
「社内営業ばかりしていると会社は鈍化する」と冒頭で述べたのですが、社内営業自体は出来たほうが、働く側としては良いと思いますし、そういった心配りができる人間というのは営業マンとしても確かに素晴らしいものです。
しかし、こうした先輩方のアドバイスが広まりすぎたからなのか、ふと外側からみると「社内営業ばかりに気を取られている社員だらけ」になっている会社をたまにお見かけするのです。
この状態は零細企業よりも、中小や大企業の方が多いといいますか、大きな会社だと、自分を保身すれば安泰…なんていまどき思ってないと思うんですが、実際問題そういう方が増えやすくなる傾向にある気がします。
特にこのご時世なので、零細企業で働いている人間は、自分の社内ばかりにゴマスリしたところで、会社が潰れたら終わりじゃんって思っているのか、割りとほどよいバランスでやっている気がするのですが、大きいところはそういうことを口では言っているものの、実際はそう思ってなかったりするんですよね。
先日お会いした従業員数が非常に少ない会社の方は、このバランス感が非常に素晴らしくて「社内の空気が悪くなったら、会社自体が駄目になる」と言っていて、全体の空気感の良さは保つようにしているものの、上司や社長にゴマすりしても、何の利益にもならないので、ただひたすら走るのみみたいなことを仰ってて、非常に素晴らしい方だなと。ぜひ独立して欲しいと思うばかりですが、こうした方は会社への愛や忠誠心も高いので、なかなか辞めなかったりするんですよね。本当に素晴らしい人材です。どこぞの風呂野郎とは大違いですね。
さて、社内営業ばかりに気を取られている社員だらけの話ですが、本当にそのままでして、ただこうしたことをしていると、社内自体はなんとなくうまくいっているかんじになるんですよね。
ある程度大きな会社だと、この方が会社全体としてはなんだか上手く回っている感じになりますし、統制がとれているといえばとれているので、パッと見だとなんだかいい感じなんです。
ところが、こうなってくると、徐々に「成長」という面では、スピード感というかそういうのがなくなってきまして、特にこのご時世なので、成長が鈍化しちゃうと、最終的に会社は気づかぬうちに業績悪化してたりするんですね。
ガス欠になった気球のような感じといいますか、いい感じで風を捕まえていると前に進むし、落ちている感覚はないのですが、何かちょっとした要因で気づいたら取り返しがつかないくらいに高度が下がってたり、前には進んでいる感じなんだけど高度自体が下がってて、気づいたら地面にどっかーん!みたいなイメージです。
前述したように、社内の空気は良いほうがいいので、ほどよい社内営業といいますか、そういうのは大事なんですが、いわゆる「社内政治」みたいなことばかりに気を取られている社員が増えてくると、もうダメポゥになるようです。
まとめると、社内営業はそれなりに大事だけど、社内営業ばかりに気を取られちゃいけないようですよっていう話なのですが、回りくどく色々と書くとこんな風に長くなるものですね。
とりま、野菜マシマシで。