直せる猶予と直せない制限という話
どもども @georgek5555 です。
10月1日は都民の日でした。現在は東京都民である私ですので、当然仕事はお休みです。そんなわけありません、お仕事していました。
さて「文章を書く」ということを生業にしているのですが、特にフィールドに制限を設けていないため、様々なお仕事をさせていただいています。
一般的なライター業務というと、何かしらの記事を書くことが想像される方も少なくないと思うのですが、多くは編集者の方が入りますので、それなりに直しが入ることが大半です。
てにをはの修正だけになることもあれば、ガッツリ文章がまるごと別人になることだって経験上散々ありました。
時間的にゆとりがあるところであれば、修正指示=赤が入った状態で一度差し戻されて、再度校正を出したりします。基本的なスタンスとして、文章というのはつくり手によって本当に自分が思う正解が違うので、最終決定者が考える思考に出来るだけ合わせて書いているつもりでも、どうしても直しがはいることは仕方ないと思っていまして、さらに言えば、編集者の人というのは読者目線が何を欲しているのか、もしくは読者にどう届けるべきかを考えているので、書き手としてもよりよい文章を構築していく上で、編集者の直しというものに全く抵抗がありません。
もちろん、抵抗が無いからといって「はいはい、全部そのままどうぞ」ということもなく、こちらが意図していることを読み取れてない直しが入ることもありますので、時に戦うことも決して無いわけではありません。
しかし、割りと僕は編集が入ることで文章が変わることに対して「もうこんなの俺の文章じゃない!悪文だ!」なんていうことはまず無いんですよね。
割りと短気だと思われているようですが、その辺はなんというか、すごくおおらかで、もちろん直されることを前提に出しているわけではないのですが、むしろ直しが入ることに心の猶予を感じていて、自由に書けているということもあります。
ほとんどの仕事が、まず僕が書き上げることを前提に発注が入ってくるのがこの仕事です。修正が入ろうがなんだろうが、その時点で仕事をきられることもまずありませんし、よほどひどい文章を出さない限り、修正をすんなり聞き入れる方がまた仕事の依頼も継続して入ってきます。
つまり、一定以上のクオリティを保っていれば、修正が全く入る余地のないほどの完璧な文章じゃなくても大丈夫ということなんですよね。むしろそれより大事なのは〆切を守るだったりとか、ネタの切り口が面白いだとか、そういったところのほうが重要視されている感じはします。
ところが、例えばコンペだったりコンテストだったりといったものに提出する場合は、むしろ修正依頼も当然あるのはあるのですが、採用されて初めて制約するものなので、可能な限り完璧なものを提出する必要があります。つまり直せない制限がかかっている状態。
たまにコンペに出すことがあるのですが、そういう時は可能な限りそのままでいける人の方が勝ったりします。たまに落ちた理由を教えてくれたりするクライアントもいて「ここがもう少しこうだったら、内容的にはあなたの方が面白かったから採用になってた」なんてことを言ってくれるのですが、これはお世辞が多分に含まれている可能性もあるとはいえ、確かにぐうの音も出ないほどの完璧なものを提出すれば、勝てた可能性はあったということなんだと思います。
直せる猶予があるものと、直せない制限がかかったもの。
仕事に対する向き合い方が、かなり大きく違うものなんだと、勝手に思っていたのですが、考えてみるとその両方を受け入れられる姿勢を持っていることが大事なんだと最近改めて思ったのです。
直せない制限がかかっているのと同じように、可能な限り100%に近づけながらも、直しが入っても柔軟に受け入れることが出来る真摯な気持ち。
自分的には100%に近づけたものに直しが入るとイラッとする人も少なくありませんが、自分が思っている100%はあくまでも自分基準であって「そういう考え方があったのかとか」「そういう方向性ね、うふ」だったりなんて感じのゆとりがあることが大事だと思ったのです。
ましてや、仕事でやっている以上、自分が編集長でないならば、あくまでも編集方針に従うべきであって、それが出来ないのなら、自分が編集長になるしかないよねと思うし、いやそうであってもそういう姿勢がないのなら、自分が編集長になったところで、きっとどこかで破綻しちゃうとは思っているのです。
成長とは、確固たる自信と、真摯かつ柔軟な姿勢、その両方のもとに生まれるのだと。
確固たる自信はいうならば幹の部分、真摯かつ柔軟な姿勢はいうならば養分を吸い上げる根。
森に生い茂る樹々の中で、どうやって太く長く育つことが出来るのか。
とりま、僕のアレは細く長いタイプです。
10月1日は都民の日でした。現在は東京都民である私ですので、当然仕事はお休みです。そんなわけありません、お仕事していました。
さて「文章を書く」ということを生業にしているのですが、特にフィールドに制限を設けていないため、様々なお仕事をさせていただいています。
一般的なライター業務というと、何かしらの記事を書くことが想像される方も少なくないと思うのですが、多くは編集者の方が入りますので、それなりに直しが入ることが大半です。
てにをはの修正だけになることもあれば、ガッツリ文章がまるごと別人になることだって経験上散々ありました。
時間的にゆとりがあるところであれば、修正指示=赤が入った状態で一度差し戻されて、再度校正を出したりします。基本的なスタンスとして、文章というのはつくり手によって本当に自分が思う正解が違うので、最終決定者が考える思考に出来るだけ合わせて書いているつもりでも、どうしても直しがはいることは仕方ないと思っていまして、さらに言えば、編集者の人というのは読者目線が何を欲しているのか、もしくは読者にどう届けるべきかを考えているので、書き手としてもよりよい文章を構築していく上で、編集者の直しというものに全く抵抗がありません。
もちろん、抵抗が無いからといって「はいはい、全部そのままどうぞ」ということもなく、こちらが意図していることを読み取れてない直しが入ることもありますので、時に戦うことも決して無いわけではありません。
しかし、割りと僕は編集が入ることで文章が変わることに対して「もうこんなの俺の文章じゃない!悪文だ!」なんていうことはまず無いんですよね。
割りと短気だと思われているようですが、その辺はなんというか、すごくおおらかで、もちろん直されることを前提に出しているわけではないのですが、むしろ直しが入ることに心の猶予を感じていて、自由に書けているということもあります。
ほとんどの仕事が、まず僕が書き上げることを前提に発注が入ってくるのがこの仕事です。修正が入ろうがなんだろうが、その時点で仕事をきられることもまずありませんし、よほどひどい文章を出さない限り、修正をすんなり聞き入れる方がまた仕事の依頼も継続して入ってきます。
つまり、一定以上のクオリティを保っていれば、修正が全く入る余地のないほどの完璧な文章じゃなくても大丈夫ということなんですよね。むしろそれより大事なのは〆切を守るだったりとか、ネタの切り口が面白いだとか、そういったところのほうが重要視されている感じはします。
ところが、例えばコンペだったりコンテストだったりといったものに提出する場合は、むしろ修正依頼も当然あるのはあるのですが、採用されて初めて制約するものなので、可能な限り完璧なものを提出する必要があります。つまり直せない制限がかかっている状態。
たまにコンペに出すことがあるのですが、そういう時は可能な限りそのままでいける人の方が勝ったりします。たまに落ちた理由を教えてくれたりするクライアントもいて「ここがもう少しこうだったら、内容的にはあなたの方が面白かったから採用になってた」なんてことを言ってくれるのですが、これはお世辞が多分に含まれている可能性もあるとはいえ、確かにぐうの音も出ないほどの完璧なものを提出すれば、勝てた可能性はあったということなんだと思います。
直せる猶予があるものと、直せない制限がかかったもの。
仕事に対する向き合い方が、かなり大きく違うものなんだと、勝手に思っていたのですが、考えてみるとその両方を受け入れられる姿勢を持っていることが大事なんだと最近改めて思ったのです。
直せない制限がかかっているのと同じように、可能な限り100%に近づけながらも、直しが入っても柔軟に受け入れることが出来る真摯な気持ち。
自分的には100%に近づけたものに直しが入るとイラッとする人も少なくありませんが、自分が思っている100%はあくまでも自分基準であって「そういう考え方があったのかとか」「そういう方向性ね、うふ」だったりなんて感じのゆとりがあることが大事だと思ったのです。
ましてや、仕事でやっている以上、自分が編集長でないならば、あくまでも編集方針に従うべきであって、それが出来ないのなら、自分が編集長になるしかないよねと思うし、いやそうであってもそういう姿勢がないのなら、自分が編集長になったところで、きっとどこかで破綻しちゃうとは思っているのです。
成長とは、確固たる自信と、真摯かつ柔軟な姿勢、その両方のもとに生まれるのだと。
確固たる自信はいうならば幹の部分、真摯かつ柔軟な姿勢はいうならば養分を吸い上げる根。
森に生い茂る樹々の中で、どうやって太く長く育つことが出来るのか。
とりま、僕のアレは細く長いタイプです。