とりま風呂

とりあえずまあ、はてブロでも。略して『とりま風呂』 by 常時系

書きたいと思う衝動に突き動かされないとつまんないという話

どもども @georgek5555 です。

このブログは、基本的にお湯がそこそこいい温度にならないと書かないことにしているのですが、ブログを色々やっていると、ニュース系以外は基本的に毎日書けないこともあったりします。
書くのが大好きなので、どれだけ書いていても、書き足らないですし、書くネタはそれこそいくらでもあると思うんですが、たまにアクセスとかがあると「よっし!この流れにのって記事投下するぞ!」ってなるのは、結構いろんな人が経験していることだと思うんですよね。

よくあるブログの運営術みたいなのにも、何かの記事がヒットしたらそれに関連する記事を最低でも1、2個投下しましょーとか、なんだったらそれでどんどん関連記事つくってそれの専門として名を馳せましょーみたいなのとかよくみます。
僕も何かしらのアクセスがあると、補足的に記事を追加投入することもしばし。
とはいえ、本来なら1つの記事で全てを言い切っているのが一番理想なわけで、追記的なものなんてお恥ずかしかったりはするのですが、そこはもうなんというか、世間話に近い感じですよね。
「あれ?みんなこの話興味あったの?じゃあこんな話もあるんだけど」に近いのでしょうか。

んで、これって結局書きたい衝動が湧き上がったからこその追加投入だと思うんですよね。
普段書いているものであっても、心の奥底では書きたいと思っているネタだったりするから、それを引っ張りだしてきて書くんだと思うんですが、「書かなきゃ」ってなりすぎると、その欲情に水をぶっかけたかのように、まったくもって書きたいという発作が収まってしまうんです。

んで、そういった時に書いた記事ってほんとつまんないものが多くて、ああ、記事って書くと怒る人がいるから、エントリーね。エントリー。
サントリーはトートバックね。

とはいえ、書く気がおきるまで放っておくと、小さな火種は酸素不足で結局消えてしまったりします。

じゃあどうすりゃいいの?

ってなる人がたまにいるんですけど、もうそんなの消しとけよと。
毎日更新したりとか、いわゆるぷろろろぶろがーみたいなのを目指している人は、それをどうにかするヒントをおくんなさいましって思うのかもしれませんが、もしそれをどうにかしたいと思ったなら、もうね脊髄反射のように何か書きたいことが浮かんだら、殴り書きだろうがなんだろうが書いちゃえばいいんじゃないですかね。
んで、それを下書きにしといたら、多分書いたことで満足して、一生ひっぱりださないから、公開すりゃいんだと思います。

このとりま風呂はそんな風に、書いたら推敲もしないし、誤字とかがあっても余程読めない間違いじゃないかぎりはそのまんまにしていて、それはなんというか書きたいことを書きたいだけ思った時に吐き出すと決めているからなんですよね。

あれ、冒頭と言っていることちゃうな。

まあ、それは置いておくとして。
ただ、とはいえ、思ったことをそのまま、すぐに書いて公開してたら、ブランディング?的に色々と損することも多いとは思います。
なので、それに反しないように、ある程度のルールを決めとくといいんじゃないですかね。

例えば、下書きにしたら6時間に必ず公開とか、書いたら30分置いてもう一度読みなおしてから公開とか、NGワードをきめておくとか。

メディア運用と同じやりかたでしょうね。

なんか、そんなことをふと思ったのが、これ書いている時で、タイトルと全く関係ない話になりましたね。
書きたいと思ったから今書いているのですが、そもそも僕の文章が面白いかといえばそうでもないと思います。

とりま自虐って一番つまんないですね。

プロアクティブしてよかったという話

どもども @georgek5555 です。

昨日からはてなをPROにしたのですが、本当に良かったなと思います。
というのも、以前は何か書く度に色々言われると、無料アカウントで別に広告収入目当てで書いてるわけでもないのに、なんでそんな言われようなんだよとか、そういう風に思ったり書いてたりしていたわけですが、考えたらその頃から早い段階でPROアカウントにして、広告を消してしまえばよかったんですよね。

まあ、ただこのとりま風呂はあくまでも裏ブログという存在として運用していたのもあったので、なんというか自分の言い訳的に、無料アカウントだったら趣味でやっているのもわかるでしょってことだったのかもしれないと今では思っています。

それとPROにすることで毎月お金がかかっているのも、ある意味よかったなと。考えてみたら、多少でも自分の財布からお金を出してやりたいことをやることで、なんというかいい意味で徹底的に使ってやろう感が芽生えるのも有ります。

もうね、お金払って書いてるんだから、何書いてもいいでしょ?くらいの勢い。
いや、あれですよ、だからってなんでも書いていいかどうかは別なんでしょうが。

もういくら拡散されようが、いくらdisコメントがつこうが関係ないって素直に思えるようになってきがします。

とりま、ラッキーカラーでラブ手に入れたい。

※追記 ポイント買い忘れてまた無料アカウントに戻りました

何かにつけて人の性格や行動にケチをつける人はめんどくさい人だという話

どうも @georgek5555 です。

なんだか昨日書いたものが、久しぶりにいろんな方に読まれているようで、驚きが隠せません。ご指摘がある通り「断って」じゃなくて「断りを入れて」ですね。あー恥ずかしい。あー夏休み。

さて、さすがに色々と反応があったので、ブコメなどを見ていたのですが、こんなふうに多くの人に読まれると、前半は「賛」が溢れていて、徐々に「否」の意見が投下されていく傾向にあります。
理由としては、最初は賛の人が「そうだそうだ」ということで、徐々に否の人がムカムカしてきて、それに対して一言いわせろとなるというところですね。
対して誰も読みそうにないものであれば、スルーするけど、さすがにいろんな人が呼んでいるとなると、そのまま看過するわけにいかなくなるといったところでしょうか。

で、中でも気になったのが「そんなことを書いているこの人が一番めんどくさくて、マウンターなんじゃないか」というもの。

いや、全くその通りだと思います。
開き直りかよって声が聞こえてきそうですが、開き直りというか、全くその通りだなと改めて思った次第ですね。
そもそも、ブログなどで他人の行動や性格などにケチをつける人というのは、いわゆる「厄介」な人なんだと思います。いうならば「クレイマー」というところでしょうか。

自分の考えにそれなりに自信があるがゆえに、少し納得いかないことや道理がいかないと思ったことに対して、周りから賛同を得たいと考えて発信しているケースばかりな気がします。

例えば、よくあるケースが「タバコを吸う人は迷惑だ」みたいなもの。
いや、まったくその通りで、タバコなんてくさいし煙たいしマナーなってない人多いし、健康に悪いし、もういいことなんてないですよね。
んで、その中でも代表的なのが「喫煙所のコミュニケーションなんて…」みたいなもの。
まあ、わかるのですが、この時代タバコを吸う人のほうが肩身が狭かったりはするわけで、法律的にも認められているものを吸っている人に、そこまで一方的に口撃をしなくてもいいじゃないか…と考えることも出来るわけです。
僕的には口撃する側の言い分もわかるし、吸う側の言い分もわかるわけです。
実際、現在は喫煙者で、過去に2年ほど辞めていたこともあって、両方の言い分がよくわかる。

で、昨日僕が書いたマウンターに関する話も、実際問題いちいち言うことでもないんですよね。
人に「ちゃん付け」「くん付け」を断りを入れてからする人には気をつけろというものでしたが、とはいってもその人に悪気があるわけじゃないことも多いし、そういった相手と付き合う上でも、自分が相手との関係性をうまく構築できれば、いちいち目くじら立てることでもない。
ただ、自分がコミュニケーション力が高くないとしたら、こうした相手と付き合う上で注意しないと、結果お互い嫌な気持ちになることが多いよっていうだけで、そんなの声を高々にしていうことでないでしょう。

で「お前がマウンターだろ」っていうのもごもっともで、元々かなりのマウンター基質であったので、むしろ昨日書いたようなことを自分はしていたタイプの人間なんですよね。
あるときから「マウンティングあほくさ」って思ったので、そのあたりから冷静に色々みると、こうした考察ができるようになって、自分が再度マウンターにならないようにというのと、マウンターに出会った時の対処法として書き残している感じですが、結局のところこんなこと書いているやつは、だいたいめんどくさいやつ。

他人の性格や行動にいちいち口を出す時点で、どうかしてるぜって話なんですよね。黙ってろよと。

ただ「嫌なら付き合うな」に尽きるんだと。

で、話をタバコの件に戻すと、こうしためんどくさい人が、積もり積もって、同意する人が増えてきて、こうした人の意見に感化されて「だったら法律変えちゃおうぜ」ってなっていくのが、民主主義なのかなとか、そんなこと思ったり。

とはいえ、めんどくさい人であることは間違いないですね。

とりま、前の日のを受けて書いたものは、ほとんど読まれないんですけどね。

ちゃん付け・くん付を断ってからする人間には注意した方がいいという話

どうも @georgek5555 です。

アイコンの写真から漂う邪悪感からか「実際にお会いするとやさしい顔しているんですね」と時折言われるのですが、それはベッドに行くまでの話であって、ベッドにいくと獣のようになると、いつも泳ぎ切ったあとに言われます。

自分の立場を有利にすすめるために、相手をマウンティングするマウンターについてこれまでも考察をしてきたのですが、ひさしぶりにマウンターの生態についてひとつばかし投下しておきます。

これは特にフリーランスになってから気づいたことではあるのですが、仕事をするうえで年齢というのは、正直どうでもいいものなのですが、どうでもいいからこそ厄介だったりするもので、特に日本においては、年齢が上の人に対してはいわゆる「敬意」というものを払わないと、時にめんどくさいことになったりします。
それはそれで当然のことなのですが、自分自身があまり年齢を気にしないタイプなのもあって、恐らくはかなり失礼を働いていることも少なくないのではないかと思います。
基本的には僕のようなこわっぱとお仕事をゲラッパしてくれる歳上の方々は、それはもう出来た方ばかりなので、そんな失礼も許してくれるのですが、僕は以前から日本語は敬語とタメ語なんてくくりをやめて、全て敬語にしちゃえばいいんじゃないかと提唱していたりして、基本的には仕事上のお付き合いというのは一般的に敬語でお話します。まあ、普通そうですよね。

年齢が下だろうが、上だろうが、関係なく敬語で話すというのは、割りとビジネスルールでは普通なのですが、ある程度仲良くなってくると、それが砕けてタメ語になっていくというのも決して珍しくないです。

んで、ここまで枕が非常に長かったのですが、今回お話したいのは、歳下の相手のことを「ちゃん」とか「くん」とかで、呼びたがるマウンターのお話。

タメ語を仕事で使いたがる人というのも、これはこれでマウンターによくみられる生態なので、これはあえて今回細かくお話しないのですが、年齢が下の相手のことを「ちゃん」とか「くん」とか「アダ名」で呼ぶ人の中でも、特にわざわざ「◯◯くんでいい?」と断りを入れてから呼ぶ人がいます。

こうした人というのは、仕事上で初めて会った時は、だいたい「さん」で呼ぶのですが、仲良くなってくると「ちゃん」や「くん」で呼ぶのは別に珍しいことではないし、むしろフレンドリーな関係になればそうなることも、いちいち目くじらを立てることでもないでしょう。
それどころか、しょっぱなから「ちゃん」「くん」で呼ぶ、ちゃんくんさんもいるので、そういう人はフレンドリーを武器にして生きている、いうなら東京フレンドパークⅡなんだと思っています。音楽を聴いている時はベース音だけ流れるやつですね。

で、またまた話が脱線しまくったのですが、その中でも注意しておきたい人物が「◯◯くんでいい?」とちゃんと断りを入れる相手のこと。

ちゃんと本人にことわりを入れているから、むしろ礼儀正しい人なんじゃないかと結構勘違いされていますが、礼儀正しさはあるにせよ、勝手に「ちゃん」「くん」と呼び出す人より実はかなり上級マウンターなのです。

わざわざ断りを入れてから呼び出すときに使う「◯◯くんでいい?」というのは、言葉を置き換えると「これからお前のことをマウンティングするけど、いいよね?」と言っているのと同じなのです。
実際問題、わざわざ「ちゃん」「くん」に置き換える必要もありませんし、コミュニケーションが「さん」で「敬語」だとしづらいというのも本来ありません。
こと仕事に関していうならば「さん」「敬語」の方がスムーズにいくことも多く、タメ語になると身内感で仕事して駄目になるケースすらあります。
それなのに「ちゃん」「くん」じゃないと仕事がしづらいと考える人というのは、マウンティングして自分が相手の手綱を持っていないと嫌だと考えるタイプの人だということなのですね。
これのタチが悪いところは、本人自体は礼儀正しくちゃんと「◯◯くんでいい?」と断りをいれたと思っているところ。マウンティングするために呼んでやろうなんていちいち考えてないんですね。

フリーランサーの人の中には、こうした相手にたまに遭遇すると思うんですが、相手からこのカードを切りだされた時に「いや、無理です」と断りづらいかと思います。実際に僕もそうでした。

ところが意外にも断っている人もいたりして、そういう人はマウンターの生態を良く知っているからなんですよね。断るときには「くんは呼ばれたことがなく恥ずかしいのでそのままでお願いします」だったり「ちゃんという歳でもないので」だったり、一見冷たく聞こえるものですが、これを言ったことで関係が崩れるような相手だったら、そもそも仕事をしないほうがいいということでもあったりするようです。

マウンターの多くは、面倒見がよく、兄貴姉御タイプだったりするので、仲良くしていると、プライベートでの付き合いもあって、さびしんぼうな人には良かったりもするのですが、相手を間違うとそれはもう、ただいいように使われて終わりだったりするので、そもそもこうしたマウンターにはあまり近づかないほうが良かったりもします。

これまで見てきた中で「◯◯くんと呼んでいい?」「◯◯ちゃんでいいよね?」とかいう人は、ほぼ630%上級マウンターで、自分がマウンターであること理解していない極度のマウンティング病に侵された患者さんであったりします。

マウンターの人とは、適度な距離を持ってお付き合いすることが一番よいので、こうした相手に仕事上遭遇してしまった場合は、ほどよい間合いを持ちつつ、それでも相手が自分のリーチに入ってくる場合は、利き手の反対側の腕でジャブを打ち、それでもめんどくさいことになりそうだったら、さっさと利き手でストレートかアッパーを食らわせて関係を断ったほうが、今後の自分のためにもよいかと思います。

仕事の結果でマウンティングするのではなく、年齢などでマウンティングしようとする人は、実は自分に自身がない人が多いです。
そういったタイプの人は自慢話や、ネームバリューの高さで関係を決めたりといったことが散見されます。
AD時代はゴミのように扱われたのに、プロデューサーになったらヘコヘコしてきた、みたいな芸能人の中でも売れないタイプの人がやりそうなことですよね。
いわゆる処世術としては、結構このやり方は正しかったりするようですが、とにかく自分が心地よく生きたいと思った時に、こうした上級マウンターはいろんな意味で問題のもとになりやすいので、お気をつけください。

とりま、冒頭のベッドの話いらなかったね。

 

追記てきなやつ↓

torima.hatenablog.jp

 

どうしてレジは割り勘に未だ対応しないのかという話

どもども @georgek5555 です。

浜辺に行けば水着ギャル達の柔肌たちが、波打ち際でうきゃきゃしていますよね。1日中眺めては、静かに準備体操をしていたいです。あ、そうかもうクラゲ出るのか。

さて、テクノロジーの進化というのはすごいもので、最近はありとあらゆるものが機会制御されていて、スーパーとかにいくとお釣りとかも自動で計算してくれるので、レジ打ちしている人にとっては間違いがなくていいですよね。昔バイトしている時に、自分は合っているのに同じ時間で働いている人が間違えたというだけでずっと一緒に計算させられたりとかしてたことを考えると、本当に便利になったなと思う次第です。

しかし、たまに飲み会とかに行くと「割り勘」という行為が発生するのですが、なぜ未だにあんなに進化したレジは「割り勘」に対応しないのだろうかというのが、とても不思議で仕方ありません。

例えば5人くらいで飲みにいって、お会計が26420円だとしますよね。パッと計算できる人もいるでしょうけど、まずこの時点でみんな「えっといくらだっけ」となります。
最近はスマホの電卓で計算したりしますけど、ちょっと前まではレジの人に「電卓かして」なんていうのは珍しくありませんでした。
まず、この時点ですごい不思議。目の前に金額を計算する機械があるのに、なんで計算してくれないのよって思う。
確かに割り勘っていうのは、端数っていうものが発生するので、正確にいくらっていうのが出しづらいのはわかるんです。
なので、計算をしてくれないまではまだいいんです。

ただ、僕が一番問題視しているのは、実際に支払いする時ですよね。
居酒屋とかみたいに、金額が大きくなる時は、幹事なりが集めてまとめて支払いますけど、ランチとかで割り勘とかしている人たちがいる時って、テーブルは一緒で伝票も一緒というのはよくある光景。
そこで、レジに行って「あー俺はA定食」「あー俺もA定食」「あー俺はA定食の大盛」みたいな感じで個別で払うことありますよね。
で、こういう時に、目の前にレジがあるのに、実際の計算は電卓でしている店よくありませんか?
最近は、電子制御?されていて、メニューを言えば、その分を払えるっていうのはあるんですけど、これだとメニューごとにしか割り勘できないじゃないですか。
つまり何が言いたいかっていうと、どうして割り勘金額を個別で会計できないのか?ってことです。

例えば「26420円」だとしますよね。5人だと、えーと1人「5284円」ですね。
で、レジに行きますよね?
「じゃあ俺は5200円」「俺も5200円」「あたしも5200円」「あといくら?」「じゃあ俺は5300円」「あと残り」みたいに払うときに、電卓とかじゃなくて、さくっとレジで会計できないかな?っていう話です。
レジの人は電卓で計算するから、当然お釣りにも間違いが出やすい。あとこちら側から、その電卓の結果が見えないから、間違っていても見過ごしてしまうかもしれない。
ここでですよ「この伝票の中から5200円だけを精算」みたいに出来るボタンがあればいいんじゃないかって話です。
伝票をピッ(だいたいバーコードで伝票管理してますよね)して「一部精算」っていうボタンを押す。5200円って金額を入力。支払う人が6000円を渡すとする、6000円預かりと打ち込む、お釣りが800円とでる。お釣り渡す。
まずこれでミスがずいぶんと減りますよね?お釣りを自動で吐き出すタイプのレジならミスはほぼ0です。
で、そこで「伝票再出」みたいなボタンをおすと「5200円」が減額された伝票が吐出されて、伝票には「預り金5200円」みたいなのが出る。
こうすると、途中で帰る人が「5000円だけ置いて行くわ」とかした時も便利だし、なんならたまにある「じゃあここで1回レジ閉めようか」とかせずに、その段階の金額で割り勘したあとに、追加注文しちゃえばいいわけですよ。

いや、もうそういうレジあるかもなんですが。

とりま、なぜここまで力説したのか、今となっては疑問。

国語辞典や六法全書が好きだったという話

どもども @georgek5555 です。

ポイント買うの忘れてたらPROアカウントじゃなくなってました。最近更新してないから、また気が向いたらポイント買います。

小学校高学年から中学生にかけてでしょうか。お小遣いの額は、微々たるものだったのですが、年に1回の楽しみのお年玉をもらったとき、普段なかなか買えない高額なものを買うのが楽しみでした。
今ふと思い出すのは、国語辞典とか六法全書とかを買って喜んでいたこと。
僕にとっては、あれらは読み物で、正直な話まったくといっていいほどちゃんと覚えてないし、六法全書とかって文章が難しいから、そこまできっちり理解できてなかったんですけど、特に刑法とか読むのが好きで、サスペンスものとか詐欺師を扱ったドラマとかで「刑法第◯◯条」なんてフレーズが出るたびに、嬉々として六法全書を開いて、文言覚えて真似してた黒歴史があります。

国語辞典もとてもおもしろかったんですよね。知らない言葉にぶち当たったときに、その意味を読んで、今みたいにネットとかもないから、創造でその言葉の意味を知るしかなくて、それが僕を妄想ボーイに仕立てあげた基礎になっているんかなと今では思います。

いや、もちろん普通に漫画も買ってたんですが、どうしてもあの頃の本って高いじゃないですか。漫画とかって読んだら基本は終わりで、読み返すことはあれど、ずーっと楽しめるものじゃないんですよね。
国語辞典とか六法全書って、どんだけ読んでも終わりがなくて、それがすごく楽しかったです。

まあ、その時読んだものがそのまま自分の中に残っていたら、もう少しまともな文章が書けるのかなとかって思うんですけど、頭の中に残っているのは各言葉に出てくる「―」の記号ぐらいで、全然頭に残っていません。

こういう話をすると、インターネットが無かった時代は良かったとかいう人が出てきそうなんですが、ザッピングっていうんですかね、別に本当は興味もない情報をパラパラみるのに、紙は適しているみたいな話が良く出ると思います。新聞や雑誌読もうみたいな。
まあでも、今でも昔でも、そういう読み方をするのかしないのかは、人によるだろうなって思うし、結局僕の中には可愛い女の子は正義ってぐらいしか残っていないので、特にそういう偏見はいらないなって最近思います。

知らない言葉やわからない事象に出会ったらググる癖があるだけで、少しは変わると思うし、昔みたいに知らなかったら辞書っていうのも時間かかるけどネットだと早いし。あと、ネットはwikiを始めとして、情報の正確さが怪しいので、本当に正しいのは何なのか?というのをより深く調べていく癖があると、逆に特定の編集者が示す辞書の言葉よりも、世の中をわたっていく上では大事なスキルが身につくんじゃないかなとか思ったりします。

とりま夏そろそろ終わりますね。

ジュラシック・ワールド、そして乗って揺られて

どもども @georgek5555 です。

書きたいことが山ほどあっても、世の中書けないことばかりです。いつからインターネッツは、こんなにも閉塞感を感じるものになったのでしょうか。今日も二酸化炭素を吐き出して、あの子が呼吸をしているよ。

さて、今日ぼくのFacebookにジュラシック・ワールドの看板の写真をアップしました。

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公開になりましたね。ジュラシック・ワールド。
これ、撮影したのは池袋駅の丸ノ内線のホームでして。

Facebookにアップするときに「揺られてきました!」と書いたんですよね。場所は「丸ノ内線池袋駅」のジオタグつけたんですが。

でも、まあ、こういうのって、ぱっとみた瞬間って「あ!ジュラの4DXにいったの?!」とかってなるじゃないですか。
「いや、だから?」と言われるとそれまでなんですけど、サムネとかタイトルとかで勝手に想像させて、勘違いさせることって、時には冗談ですむけど、それがメディアとかだと冗談じゃすまないこともあるよなって、ふと思ったんです。

あえて勘違させて「えー!ちがうじゃん!」ってなった時に、そのあとに「www」がつくのか「(#」がつくのかでは大違いで。
あんまりアクセスアップを狙って、こうしたみすりーでぃんぐっつうやつですか?を引き起こして、読者を欺きすぎるのも良くないなーと思ったしだいです。

とりま、この投稿がまさにそれですけどね。

芸能人の息子でコネコネしちゃっているのという話

どもども @georgek5555 です。

芸能人の息子として生まれてこなかったので、コネでインサートができないので日々腰の鍛錬に余念がありません。

チッカーズといえば、僕よりちょびっと上の世代の方が大熱狂したバンドですが、僕の出身地が福岡ということもあってか少し下の世代である自分もとんねるずのみなさんのおかげですとともに熱狂していた1人です。
ここ数日、そのチェッカーズのボーカルである藤井フミヤさんの息子さんがフジテレビにコネ入社するのではないかと、いんたーねっつで盛り上がっているようです。

www.asagei.com



局アナといえば倍率1000倍以上とも言われ、とくにキー局のアナウンサーとなればさらにその倍という狭き門。
まだ入社が決まっているわけではないのですが、少しでも採用させないようなムード作りが行われているのか、単にゴシップとして盛り上がるからというのか、そのあたりの真意は僕にはよくわかりません。

しかし、コネ入社だとして何が悪いんだろうかという意見も結構多く、テレビという公共性が高いものを扱っているとはいえ、私企業であるのでコネなんてそこいらにゴロゴロしているだろうというのも納得です。

個人的には、もし仮に司会者の方の頭髪に問題があったとしても、思わずじっくり眺めたりしなければ何も問題がありませんし、誰がなろうと割りとどうでもいいのです。

そもそも、芸能人の息子として生まれてきたのであれば、幼少期はもしかしたらいろんないじめにあってきたかもしれないし、一般的な暮らしをしようにも「◯◯の息子」みたいに扱われて、それなりに苦労してきている可能性もあるわけで、そういった人がマスコミ関係に入社するというのはある意味自然っちゃ自然な気もするんですよね。
いや、別に自然でもないかもしれませんし、確かに自分の親が誤って女性のスカートの中を盗撮したりお風呂場覗いたりした時にちゃんと報道できるの?なんて人もいるかもしれませんが、それにしても例えば高橋真麻さんなんて、今でも立派にお仕事をされているので、コネであったとしてもやっている人はやっているよねという。
あと、これは芸能だけに限った話じゃなくて、親がその業界に近いところで仕事をしているのを間近で見て育つと、それなりにその業界への素養は高まることはあるわけで、そう考えると親が芸能人であれば、テレビのお仕事はそれなりに他の方よりも素養があるということはいえるのじゃないかなと。

とりま、カトパンはやっぱりエロい。

「ま、いっか」というユルさを招く呪文を唱えるという話

どもども @georgek5555 です。

書くことが整理しきれていないままに、こうして書き出したのですが、6月から自分の中でさまざまな変革を行っていたのですが、7月からある程度その方向性みたいなのが固まってきて、最近わりと精神的にとてもよいです。

元々自分はいろんな物事の細部が見えなくてもよいことまで見えてしまって、そこが気になって仕方のないタイプでした。

自分の仕事に関することであれば、まあそれはよい能力だとは思うんですが、他人のやっていることまで、思わず口を出したくなってしまう、なんというか面倒な人なんですよね。
実際問題、それで自分に害が及んだところで、いちいち気にしても仕方ないですし、とにかくポジティブに前に進むわけしかないわけで、まあ口からはポジティブな言葉が出てきますし、行動もわりとポジティブよりではありました。

ところが、実際ひとりの殻に入ったり、ごくごく身近な人の前では、なんというかネガティブな自分が出てきて、そういう細かいところが気になることとか、そういうのを溢れ出させていたんですよね。

わかりやすいのが、このとりま風呂。

まあ、実際問題他人がやっていることなんて、気にしても仕方ないですから、そんなもん見ても別に放っておけばいいんです。
それと、自分もそうなように、完璧な人間なんてどこにもいないわけで、他人の欠点がたとえ目についたとしても、その人がそのままいけば命の危険にさらされるようなこと、例えばドラッグとか、そういうことでない限り、余計なアドバイスも要らないし、そんなところに苛ついても仕方ないわけです。

でも、不思議と自分はそういうところに目がいくと、いつからかイライラするようになったんですよね。
あれ…いつからなんだろ。

どちらかというと、そんな細かいことを気にしても仕方ないから楽しくいこうぜ!タイプだったはずなんですが、なんだかあっという間に歪みきった性格になっていたのかもしれません。

んで、結構前なんですが、尊敬すべき人生の先輩の1人に「もう少し他人に対して甘くなってよいんじゃないのかな。ま、いっかって」と言われたんですよね。
僕的にはこの「ま、いっか」って感じが根本嫌いなんですが、よくよく考えてみたら、僕が嫌っている「ま、いっか」と、この場合の「ま、いっか」って違うんじゃないかってことに最近気づいたんです。

それから少し意識して、自分の心のなかで不条理に感じることや、いらつくこと、向けられた刃に「ま、いっか」と唱えるようにしたんです。
なんでしょうね、まだまだ少しもんやりすることはあるのですが、以前に比べるとそれでずいぶんスッと心が穏やかになれるようになってきたんです。

以前なら、そんなこと思わないのでムキー!ってなって、さらに相手に攻撃をしたり、時には大げんかになったり、ナイフを持っていない方の手を握り合って赤いジャンパーで刺しあったり、そんなことしてたんですよね。
でも、この「ま、いっか」を使うことで、ずいぶんと相手を許せるようになってきたんです。
いや、許すというか、どうでもよいところにもっていくというか。

いざとなれば、いくらでもコロ助する方法はあるので、いちいち細かいことで腹を立てても仕方ないし、そもそもその腹を立てる原因は自分にあるのかもしれないし、いろんなことを気にしても仕方ないので、じわーっと相手の足元に毒素を噴霧しながら、自分自身はノンビリ過ごすことのほうがよいなと、そんなふうに思うようになったわけです。

まあ、それでも納得できないことや、苛立ってしまうことはいっぱいあるわけですが、それでも何故それに苛立っているかの原因を探っていったら、ひとつの答にいきついて、そのおかげで結構「ま、いっか」で済むようになってきたんです。

そのいきついた答というのが、僕の小さなプライド。
自分が馬鹿にされている、自分がけなされている、自分をこけにしている、自分を見下している…みたいな、どうでもいい小さなプライドを傷つけられたと感じたことに対して苛立ってるんじゃないかと、そんなふうに分析したんですよね。

実際問題、そんなどうでもいいプライド持つほどの偉い人間でもないし、馬鹿にされてなんぼなのに、すっかり忘れていたんですよね。
そこでもしミジンコプライドがぐらついたら「馬鹿にされている?相手が脳みそ足りないだけでしょ」「けなされている?けなすことでしか自分の地位を高められないのか」「こけにしている?誰かをこけにしたいくらい色々うまく行ってないのかな?」「見下している?見下さないと自分の足元がぐらつくダサいひとなのか。かわいそうだ」などと、脳内で置き換えるようにしたんです。そしたらずいぶんと楽になりました。

とりま僕、性格悪いな。

PR表記についてふと思うことがあるという話

どもども @georgek5555 です。

最近、いわゆるステマ騒動の後の流れとして、お金をもらって書く広告記事に関してPR表記を付けるのは当然だよね的な内容の文章をよく見かけるのだが、これに関しては専門家の方から言えば、当たり前すぎることで、いちいち論議することではないという声すらあがっているので、僕が語るのもあれなのですが、ちょっと前々から疑問に思っていることがあるのです。

お金をもらって書く広告記事がPR表記を付けるのは当然だというのは、全然理解の範疇で、いわゆるブロガーさん達も「当たり前だ!」「適正化だ!」「◯◯ちゃんprpr」と声を荒らげているのですが、そうしたペロラーのみなさんも実はまだ解決出来ていないんじゃないかと思うことが、物をもらった時の話。

ブログたるものをそれなりにやっていると、広告記事もそうですが、使って感想書いてくださいという依頼をちょいちょいもらうようになります。
個人に依頼がこなくても、深夜のラジオ番組のタイトルみたいなPR会社さんのように企業から依頼を受けてブロガーを集めて試食会や、商品そのものをプレゼントしたり、時には旅行に連れていったりといったことをしてPRのお手伝いをするようなところもあって、割りとよく同時期に新商品などのレビュー記事を見かけます。

前に商品紹介がうんぬんみたいなのを、このブログでも書いて、今は排水口の下の方にあるので読めないのですが、商品レビューがおもしろいとか、くそ面白く無いとかそういった問題以前に、物をもらってレビューを書く場合はPR表記は要らないのだろうか?という疑問が湧き上がっているのが最近なのです。

いわゆる献本だったりすると、献本してもらったことを書いている人を割りとよく見かけるのですが、それ以外の場合は「もらった」「借りた」と実際は返却不要な場合でも書き方が分かれていたり、そもそも企業から送ってもらったことすら書かない場合もある。
まだ物の場合は「もらった」「かりた」というのを書いている人が多いのですが、試食会の場合などは「招待された」ぐらいしか書いてない人も多い。

読者にとって誤解を招かなければ、特にPRと書く必要はないのでしょうから「試食会に行きました」と書いていれば、タダ飯にありつけたということが解るので、いわゆるステマ的なものにはあたらないのでしょうが、しぇんえんでもにしぇんえんでももらっている場合はしっかりと【PR】とタイトルに入れるのに、それ以外にはタイトルに入れなくていいのは何でなのだろう?と疑問に思うことがあるのです。

「もらった」「たべさせてもろうた」とかは、確かに金銭の授受がある無し問わず、何かしらの施しがあることが明確だから、とくに【PR】と入れる必要性はなく、そうした「もらった」「たべた」が無い記事の場合のみ【PR】と入れないと分からないよねってことなのだろうか。

それであれば、タイトルじゃなくて最後か最初に「この記事は◯◯の提供でお送りしております」と書いてあれば、別にタイトルに【PR】と入れなくてもよいということですよね。

しかし、いろんな人達の意見を見ると「広告記事はタイトルに【PR】と入れなければ駄目だ!なんでわからないんだ!いそっぷーーー!!!」というのをよく見かけます。
であれば、「もらった」「たべた」「旅行ごちになりまーす」あたりも、書くべきでないのだろうか?

広告記事も単価がバラバラではありますが、個人ブログレベルだと、安いものでは数千円のものも決して少なくないです。
そう考えると、例えばカメラをもらったとか、ステーキ食べさせてもろーたとか、そうしたものは、ヘタすると広告記事よりも費用面で考えると高額なのではないだろうか?
特にPR表示に関して、みんながわからないとのたまっている状態であればいいのですが、うちはしっかりとPRって書いてますだったり、PRって書かないなんてありえないだったりを言っているのにも関わらず、いただきものに関しては不明確なものはよく見かけます。

こうした話をすると、試食会などの場合は交通費がかかっているしなんてことを言い出す人もいるのですが、それも会場がたまたま家の隣だった場合だったりすることもありますよね?という揚げ足取り大会になる。

もし仮に物をもらって書く場合は広告記事であることを明示する必要がないということであれば、企業側は現物支給にすればPR表記なんて付けなくてもいいわけですよね。それもどうなのか。

PRを付けないことはいかん!おかん!と声をあげているところが、こうしたことに関してかなり緩くやっているのを見ていると、実際問題どうなんだろうかというのをすごく最近もんやりと思うわけです。

施しを受けた場合にPRを付けないといけないと結論になった場合、仮に誰かにごはんを奢ってもらった場合は、その人の人物名を出すたびにPRをつけないといけないのだろうか…いや、これは否だ。別に宣伝のために書いているわけではないから。

ううむ。よくわからなくなってきた。教えてください、偉い人。

とりま、ぺろぺろ。